CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

備蓄すべきは平常心

日ごろ何かの機会があるたびに私が言っているのは、断食を経験しておくと2、3日食べなくても大丈夫とわかるので、災害などの場合にもあわてずにいられるということ。

某嬢は先日の台風の時にそれを思い出して、食料買い込んだりしなかったらしい。
でも、ごめん。私たらふく食べておりましたの。だって、リトリートやるつもりで食料買い込んであったから、それをどんどん食べないといけなかった。おまけに停電だから早く片付けないといけなかった。

その上、停電で冷凍庫がダメなのでお向かいさんからイタリアンパセリのスコーンをいただいたりして、むしろたいへん充実した食料事情であったという......。

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チャイによく合っておいしかったー


私が言いたいのは災害があったら断食しなさいということではない。災害に備えて食料その他を用意しておくことも大事だ。ただ、どんな災害にも困らない備蓄はありえないから、絶対ってことはない。だから足りないかもしれないと不安になってさらに買い込むよりも、なくてもなんとかなるという平常心を備蓄しておいたほうが有効だと思うのよね。

あとねえ、私が感じていることは、テレビやインターネットからの情報に頼りすぎず、データだけでなく、自然そのものから危険がどれくらいなのかを感じとる力をもつのがヨーギンではないかと。感じる力、直観力、危険が迫ってきたときに、本能的な危機感知力を発揮できるような鋭さを養うには、ヨーガの修行とともに自然の中からさまざまな兆候を読み取る経験が必要だ。

昨日の茶禅会ではそんな話をしていた。


台風の翌々日。別荘地の外まで散歩に出て橋から川を眺めてみた。

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この川は千曲川に流れ込んでいるはず


現代人の感じる力は、人の顔色を窺ったり反応を気にすることにばかり費やされているのかもしれない。

もっと原始的になって
もっと野生的になって
ハダカのまま感じてみようよ



今週末は森のリトリート。
屋外で過ごす時間を多めにして自然をたっぷり味わってきます。焚き火ができるお天気だといいなあ。

CHAZEN史上最大の作戦

昨日のブログ、意味不明すぎた。自分にしか通じない言語......。
というのも、生きる歓びと生きていてよかったヨロコビで胸いっぱいになり、頭おかしくなってたわ(いつもやろ)。

昨日のヨーガ・スートラクラスにて、お茶の時間にわいわい言いながらみんなでケーキを食べていたところ、突然立ち上がって司会の挨拶を始めた人がいた。


なんだなんだ? どうしたというのだ?


明らかに空気の流れが変わったので、いったいなにごとかと思ったら、森のCHAZENのオープンおめでとう? しかもお祝いのプレゼントをくれるとか言ってる......。


いやびっくりするわー。
そんな気配みじんも感じなかったものー。
みんな突然のリトリートハウスにびっくりさせられて、コメントもほとんどなかったからねー。

こちらもお祝いされるようなことという認識もないから、まさかまさかの展開で。(むしろ誕生日おめでとうって言われたなら、普通に、ある程度予想ができるサプライズであったと思うけど)


何やら贈呈式めいた中で渡された包みの中をチラッと見て、「わーっ!!」と歓声を漏らしたら、

「そこじゃない。そこじゃないから」と。

見えたのは本体を包んだ袋だったのだ(その袋だけでも十分すごいのだけど)。

で、その袋を開くと藍色の布が......。


そこで一瞬頭に浮かんだのが「もんぺ?」
先日来、もんぺを手作りするという話が上がっていたのでそれかなと思ったのだ。


が、開いてぶったまげー。

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言葉がない


それは40の刺し子をしたモチーフがつながった美しいパッチワークキルトであった。


糞掃衣━━━━ヽ(‘∀`)ノ━━━━!!!!



糞掃衣についてはちょっと前にその実物を拝見する会があった。

chazen.hatenablog.com


なんちゅーナイスなアイデアなの〜!

40のモチーフは40人がそれぞれひとつずつ縫ってくれたものだという。そして、糞掃衣を入れる袋と同様に作ってある袋には刺し子をしてくださった40人の名前が刻んであり、それを見てまたぶったまげー。あんな人やこんな人まで縫ってくれている!

ちょっとぉ〜、これスゴすぎませんか〜。

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左にあるのが専用袋


なんでもみんなふたつ返事で引き受けてくれたそうで、男子も含まれているし、こんなことしそうにない人までもれなく名が連ねてある。

もうもう感激しすぎて「わーっ」とか感嘆の言葉しか出てこなかったですわー。唯一思い浮かんだのが、あの世にも持っていきたいってことで、「死んだら棺桶に入れてね」って、へんなコメント。


しっかし、忙しい毎日なのにこんな面倒なことやらされて申し訳なかったなあと思ったら、意外にもみんな縫う作業が楽しかったというコメント。

そりゃそうですやん! ちくちくは瞑想ですやん〜。

chazen.hatenablog.com


いろんな意味で秀逸すぎる作品である。
私の伝えてきたことをすべて反映しているという、ヨガ教師冥利に尽きる作品である。

しかし、このような贈り物をいただくような価値が私にあるだろうか。
こんな素晴らしいプレゼントをもらうだけのことをしているだろうか。
プレゼントが偉大すぎて自信がなくなってきた......。

いやいや、これは大いなる励ましなのだ。私がしっかりと、やるべきことをやって、あるべき姿でいるための大いなる励ましと考えよう。どうやって感謝の気持ちを伝えたらいいのかわからないけれど、ほんとうに身に余る光栄です。ありがとうございます。


それにしても、プロジェクトは夏頃から始まっていたようで、私にバレないよう気取られないよう秘密裡に進められていたそうだ。その仕掛け人たちの企みと、みんなのちくちく縫っている姿を想像するとニヤニヤしてしまう。

おそるべしCHAZEN生なり。

してやられたー。

いきる歓び

ヨーガ・スートラクラスは、第二章の終盤に差し掛かり、ここからはレクチャーだけでなく実践の時間をもうけることにした。今日はアシュターンガ(八支則)のプラーナーヤーマについて、ヨーガ・スートラに書かれていることを解説したあと、アシュタンガプラクティス(朝練)における呼吸について重要なポイントを確認し、いくつか呼吸の実践を行った。

そのポイントとは、音を出す(自分で聞く)こと、ゆったりと吸って吐くこと、吸う息と吐く息の長さや質などを均等にすること。しかし、これ「言うは易く行うは難し」なのである。なぜなら多くの人がポーズにばかり目を向けて呼吸がおろそかになっているものだし、たとえ意識していても、ポーズに習熟していないと均等に呼吸することは難しい。

この(適度に)長くて均等な呼吸をマスターすると、アシュタンガヨガの練習は今よりももっと心地よいものになる。朝練のときの呼吸を、座って実践してみてもらったところ、みなさん気持ちよく(眠く?)なったようだが、それがアシュタンガヨガの気持ちよさなのだ。

私自身、肩が動かなかった3年間は呼吸だけで練習していたようなものだけど、呼吸により重点が置かれたことで、アシュタンガヨガがいかに優れているかまたまた気づいてしまったのであった。

規則的な呼吸ができるとアーサナにリズムができる。呼吸がスムーズであればあるほどアーサナはよどみなく流れ、私の感覚でいうところの「バッハが鳴る」状態になる。その心地よさというものは、何かが得られてうれしいとか幸せというものとはちょっと違うような気がする。それを今日のクラスでは「シャバのよろこびとは違うよろこび」という(わかりにくい)表現で伝えたのだけれど、クラスが終わってから、それこそが「生きる歓び」なのではないかと思ったのだった。

「生きる」ということは「息をする」ということ?
息が心地よくなると、生きるのが心地よいでしょ? 風邪引いて息が苦しいときはほんとにつらいもの。息がスムーズになるということは、他に何もなくてもいい。この命を生きていることだけで満足している状態なのだと思う。そしてそれが私の言う「ただのいのちになる」ということにも通じるのではないか。

息が一定のリズムで長く淀みなく流れる時、そこには好きや嫌い、良い悪いという観念は存在せず、ただ命そのものになっているのだと思う。何がなくても幸せであるという、究極の満足した状態なのだと思う。それこそがヨガ。

私がアシュタンガヨガの練習に見出す歓びというものはそれだったのだなと今さらながら気づいた。
それが昂じていくと、ある種の「神を見る」ような状態が生まれる。

生きる歓びとはすなわち、息をする歓びであったのか。

生きていると数々の困難や試練に出合うものだし、毎日の生活はストレスにさらされているけれど、毎朝ただのいのちに還ることで「なんでもない幸せ」がカラダに刻まれていく。その積み重ねなんだろうな。アシュタンガの練習を続けている人は、たとえ自覚していなくとも、その歓びがわかっているのかもしれない。アシュタンガとはただの生きる歓びなんだよ。

やっぱり、誰がなんと言おうとアシュタンガはすごい。


閑話休題
先日誕生日を迎えたワタクシにケーキが届いたので、お茶の時間に10月生まれ3人の誕生会をした。

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ローソク消したあと


数が足りなくなったので、私はみんなから一口ずつ恵んでもらうという一番得する人になったのだが、その後超サプライズのビックリな出来事があり、感激でケーキどころではなくなった。「生きる歓び」だけでなく「生きていてよかった喜び」まで味わった本日であった。あまりに盛りだくさんなのでそれについてはまた明日。

仕切り直しでアーユルヴェーダなリトリート

リトリートが台風で流れたことは、連休ならではの二泊三日でアーユルヴェーダの基本とアシュタンガヨガを絡められる貴重な機会だっただけに残念です。が、それもなにかの思し召し。気を取り直してリスケしよう。

とはいえ、9月ならともかく、10月の連休が台風でつぶれることは考えていませんでした。仕切り直す日程にもゆとりがないので、お申し込みいただいていた方々と調整して、11月に予定されていたリトリートをアーユルヴェーダなリトリートに変更することになりました。

私自身のためのリトリートとなった数日間、準備してしまっていることもあり、食べるもの飲むものを含めアーユルヴェーダ生活をしていたのですが、改めて今こそ古代インドの知恵を学ぶべきと再確認しました。

まず、冷蔵庫なくてもOKということ。
実習でギーを作るためにバターを買っていたのですが、停電が長引きそうだとわかってギーにしてしまいました。ギーにしてしまえば常温で保存ができるからです。それに野菜中心なので冷蔵庫に頼らなくても大丈夫なのです。

むしろ、冷たいものを飲んだり食べたりしないよう、あえて冷蔵庫から出しておいたりしていたので、停電状態になってはじめてスタンダードに近づいたような......。

災害があるとどうやって非常時の電源を確保するかということに目が向きますが、ヨガが教えてくれるのはむしろどうやったら電気なしでも幸せに暮らせるかというものです。モノを増やすよりは減らす方向、前進よりは退却を目指すのが幸せへの鍵なのです。

もちろん電気なしではもはや生活は成り立ちませんし、命にかかわる重要なことですが、大事なのは視点を変えるということにあると思います。

そしてもうひとつは、すべては絶対的な正しさではなく、バランスであるということ。
私たちは何かあると直ちにそれがいいか悪いかを決めつけて、よければ満足して得意になり、悪ければ落ち込んだり、あるいは逆ギレしたりする習性のなかで生きています。昨今の情報社会ではそれが過剰になって辟易することも多いですが、自分に対しても他に対してもそれをやめて、全体のバランスにフォーカスを移した時、自分を束縛していたものがとれて余裕が生まれ、穏やかで寛容な心が現れてくるのだと思います。

アーユルヴェーダの考え方は、このバランスの調整にあります。ドーシャバランスの考えがとてもおもしろいと思ったことが私がアーユルヴェーダにはまったきっかけです。インターネットや本でチェックしたことがある人も多いと思いますが、その考え方の基本がわかるとすべてに応用がきくようになります。

そういった次第で、アーユルヴェーダってマッサージだと思っていた人も、アシュタンガはやったことがないという人にも、ぜひこのリトリートを経験していただきたいと思っております。まもなく定員のこの回ですが、希望者があれば定員数を増やす用意もありますので、ご興味があれば迷わずお問い合わせください。


2Fのメインゲストルームは、ツインからトリプルになりました。ベッドルームはもうひとつあります。

冬を控えて、カーテンの裾処理はしないことに(言い訳)

私的リトリート

今回の台風でアーユルヴェーダなリトリートはキャンセル。
午前中早い新幹線で無事たどり着ければ......と考えていたのだけれど、台風の威力は予想を上回るものであった。

森の家が停電に見舞われたのは、18時すぎ。
めまぐるしく変わる雨量や風速の予測をチェックして、どうせなすすべもないのだから坐ろうと畳スペースで坐禅をしていたが、突然緊急警報が鳴り始めて中断を余儀なくされた。森の家は山の上なので、山全体が崩れでもしない限り避難することはないだろうが、立て続けに避難情報が入るなかでは坐っているわけにもいかず、iPhoneを操作しているうちになぜか古い写真を削除する作業に没頭してしまい、無駄にバッテリーを消費していたところにバコッと音がして電気が消えた。

朝キャンセルが決まった時は、こんなことなら仕事道具を持って来ればよかったと思った。そうでなくても時間が足りないのだから、この降って湧いた暇を無駄にしてはもったいないと、できる範囲でできる仕事を始めていた。

それが切り替わったのは、停電のバコッという音を聞いたときだった。
さっさと寝る支度をしてベッドへ入り、ヘッドランプで読書を堪能。

翌朝は電波が圏外になっていて、バッテリーはあっても通信が途絶えた。
この際、情報はなくてもいい。ひっきりなしに行き交うヘリや小型機は救助のためだろうか。ニュースがなくても被害が大きいであろうことは容易に想像できる。

リアルなリトリートに突入したことを実感。

ちなみにretreatという言葉を辞書で見ると、こんなことが書いてある。

a period of time used to pray and study quietly, or to think carefully, away from normal activities and duties:
(日常の活動や仕事を離れて、静かに祈ったり学んだり、あるいは熟考するための期間)


スマホというものはリトリートの妨げになるものであって、たとえば永平寺で参禅研修のときはお財布とかケータイ、時計などすべて封筒に入れて封をし、金庫に預けて終わるまで使うことはできない。まさに今はその時ではないか。

まだ台風のさなかであったら、情報がないのは危険でもあるけれど、もう空は晴れていて、森を吹き抜ける風がさわやかで心地よい。いっそ何もないと思えば執着もなくなる。持たないということは潔くて気持ちのよいものだ。

道路に落ちている枝をどかしながら、この期に及んでも山栗を拾いながらシューと一緒に散歩。

黒ラブのセシルちゃんちの、美しく積まれた薪が崩れていた......。

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ちょっとかわいい被災


庭の片付けをしながら、お向かいさんと話して必要な情報を得る。
電気なくても、電波なくても、ダイレクトコミュニケーションで情報が入るじゃないですか。

お散歩の途中で、ピレネー犬のくーちゃんと交流したり。

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くーちゃんも後期高齢だそう


静かな秋の空気が私にはたまらない。森が好きだ。秋が好きだ。空が好きだ。
そんな風にして、ただゆるゆると停電と通信断絶の中に身を置いていたら、私が私のあるべきところへ戻っていくのがはっきりと感じられた。

というのも、私はこの半年の間ずっと本来の自己を置き去りにして、タスクをこなすことに必死だった。CHAZENと田んぼと森の家をすべてちゃんとしようと思って(できるはずないのに)それだけに炎を燃やしていた。すべて自分で決めたことなので、やり遂げなければならぬ。穏やかさからは離れていってしまうことを自覚しながらも爆走(爆働)するしか方法がなかった。

人は時にそういう時期もあるものだし、あっていいと思うけれど、それはヨガをやる前の自分に戻ってしまっているだけのような気がした。そして、そういう自分にひどく違和感を覚えていた。ちょうど先日田んぼが片付いたこのタイミングで、ようやく自己を取り戻す時が「与えられた」のだった。

15日は俗世間の(ちょっと面倒な)用事があって、それがために早く東京に戻ることもできなかったのだけれど、この私的リトリートの時間によってサットヴァが優勢になり、相手を思いやる懐ができて、気が滅入ることに対してもそう思う「自我」に気づいて、さらっと流すことができたので、結果的にすべてが穏便に片づいた。

大抵の人は元来サットヴァな性質をもっているのだけれど、社会で生きていく中での人間関係や、多忙さの影にかくれて見えなくなっているのだと思う。そこから「退却することで、見失っていた自己に還っていく」ことが可能になる。retreatにはそもそも退却という意味がある。つまり「回向返照の退歩を学す」時間ということ。これこそがリトリートの目的なのだ。

まず日常を離れる。
自分と向き合う。
自然の中に身を置く。
瞑想と学び。


貴重な連休のリトリートが流れてしまったのは残念ではあるけれど、すべてはこの先につながっているからね。

26日からのリトリートは、交通情報をみて集合場所や集合時間の変更があるかもしれませんが、開催いたします。

退却の時を過ごしてみませんか?

www.chazenyoga.com

停電復旧、本日戻ります

今朝起きて部屋を出たら「ん?換気扇の音がするぞ」

......おお!

電気が戻っていました。なんだかサンタのおじさんが来たような気分です。

ずっと圏外だった電波も戻っていました。

この不便のおかげでみなさまにはご心配おかけしたり、連絡が行き届かず申し訳なかったですが、私としてはよき時間を過ごさせていただきました。詳細はまた改めて書いていきますが、今思うのはこれも「与えられた」のだなということです。

昨日の雨でまた状況も変化しているかもしれません。道中気をつけて帰ります。
もろもろの滞っていることは本日戻り次第片付けますので、しばしお待ちくださいませ。

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薪ストーブでチャイの朝

台風直前で収穫作業完了

またまたすごい台風がやってくるそうで、さっき大急ぎでベランダを片付けた。
昨日すべての稲を脱穀し、籾摺りし終わって、ベランダにあった稲たちもギリギリセーフで片付いてよかった。

最後は綱渡り的米作りである。
昨日一日ですべての作業を終えられるかどうか、私は真剣勝負だった。CHAZENのみんなに協力いただいて、ベランダに干してあった稲をまずブルーシートに包むところから。

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神楽坂の稲作農家CHAZEN


玄関口からエレベーターに載せられるサイズにして、コンパクトカーの後部座席を3分の2倒して稲を積み、すでに脱穀が終わった籾を積み、さらにヒトが3人とイヌ1匹で出発。同行の倶楽部員には申し訳なかったが、すべてを終えて20時までに帰って来るというミッションを果たすために、食事の休憩はなし。行きと帰りの車の中でおにぎりやパンなどをほおばるというブラックな労働であった。

最大の懸念は脱穀機がうまく動くかどうか。
幸い、行くことを伝えたらSOSA PROJECTの高坂さんがヘルプに来てくださって、最後脱穀機が動かなくなったりしたが、ことなきを得た。

機械がちゃんと動けば脱穀自体はすぐに終わるが、問題はいまだにどろっどろの泥沼状態の田んぼに干してある稲を取り込んで車に載せ、脱穀機のある場所まで運ぶことであった。困難の元凶はすべてこのどろっどろにあった。

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みんなはまって動けなくなるんよ


あわよくばここでお昼休憩できるかと思ったけれど、とんでもなかった。脱穀が終わった後に山のように出る稲藁をまた車に載せて、田んぼに撒く(来年の肥料になる)という作業があったのだった。さらに、最後畔に置き忘れて脱穀していない稲の束があったりしてガビョーン。それは手で脱穀したほうが早いと言われ、籾摺りしてくださる方の家へ急ぐ。

しかし、これも何かの思し召し。
手で脱穀しますという私たちに、江戸時代式の脱穀機を出してきてくださった。まるで稲作博物館に見学にきたかのような......。

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昔の人たちはみんなこうして脱穀してたんだなあ


籾摺りは初めて見たけど、超シンプル。籾を投入すれば、うしろから玄米が出てくる。

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ねこちゃんのたくさんいるお家でありました


かくして、この2カ月の私の気苦労はようやくここでフィニッシュとなった。まだ後片付けなど残っているけれど、これでひと段落。最後まで付き合ってくれた倶楽部員たちにひたすら感謝だ。

今朝、さっそく玄米ごはんを炊いてみたら、炊き加減失敗したわりにおいしかった。みんなで作ったお米。ありがとう、ありがとうでいただきます。


今週末からは台風とともにリトリート。でもこっちは何があろうとも成り行き任せで、のんびりゆるゆるやりましょう。