CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

暴走宣言

以前より一度お話を聞いてみたいと思っていた南直哉さんの講座へ。
直哉さんは永平寺に長く安居されていたお坊さんで、その当時はダースベイダーの異名をとる厳しい先輩僧だったらしい。時としてたいへん難解なことをおっしゃられるため、仏教かじったばかりのころは理解できなかったが、『「悟り」は開けない』という本を読んでからは納得することが多くなり、常に注目しているお坊さんのひとりである。

ナマ直哉師は私が描いていたイメージとギャップのある人であった。
「〜でございます」調でしゃべられるのだけれど、いかにも僧侶といった静かで穏やかな雰囲気ではなく、理知的でキレ者という風味を決して前面に出しもしない。意識的にそうしているのか、素がそういう人なのか不明だが、ややオーバーなアクションで扇子を振って、時に過激な言葉遣いで話すさまはどう見ても「講座」というよりは「高座」、噺家の落語を聞いているようだった。

若干そこになじめない感じはあれども、話の内容はおもしろくて、脱線に次ぐ脱線。かと思いきや、最も重要な落としどころはハットトリックで決めるなんざ、さすがの話術。

仏教界でもっともたくさんの著書があると思われる某仏教者とか、某テーラワーダの僧侶を名指しでバッサリ斬っておられたが、そのメジャーなお二人の言葉がぜんぜん心に響かない私としては「やっぱり」と大きくうなずいたのであった。

曰く、古い仏教者、じいさんはダメだと。語り口が古いのだと。
古い教えを聞いたままに伝えてもダメ。自分が体感して、納得したことでなければおもしろくないとおっしゃられる。

おお、まさに私が考えてることそのものズバリではないですか。

なんだか応援されてる気がしたね。


最近、もっともらしい、教科書的なことを講義する気がしないんですよ、私。
私が伝えたいのは、サンサーラがどういう意味で、プルシャとプラクルティがどうで、なんつーことじゃないんだよね。それもまたひとつの要素であるから伝えるし、それがわかるとおもしろさも倍増するのは確か。

だけど、オレは予備校の教師じゃねえんだよ!

そんなもん覚えたからってなんにもなんねーんだよ!
(直哉師に感化されて毒舌が炸裂)


というわけで、今後の座学クラスではちゃみこさん暴走する可能性大アリ。

今さら驚きはしないでしょうが、よいこちゃん的なお勉強の枠から離れますよ。


どうぞ暴走っぷりを見物にいらしてください。


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最後に暴走したのはいつだったかなー  しう

2月はスペシャルのオンパレード

あったかくなってリトリートハウスの作務が始まる前に、もろもろの、やろうと思ってたことをやります。


その1)
次の日曜日2月2日の茶禅会は、初めての方にもやさしいビギナーズフレンドリーバージョンにいたします。いつものように「正法眼蔵随聞記」を読みますが、

  1. 節分会で豆まきをします。
  2. 坐禅のガイドをていねいに、坐る時間を短くします。
  3. 執着を捨てる四つの智慧について紹介します。

お試し参加大歓迎です。


その2)
新しいギータークラスの詳細が決まりました。
従来の月いち全12回を改め、テーマにフォーカスした全4回のダイジェスト版です。2月23日がスタートですが、11日にギーターの背景をご紹介するプレクラスを行います。11日の詳細はお問い合わせください。


その3)
2月は9日と24日がムーンデイ。どちらも休日なので24日にムーンデイならではのスペシャルクラスを行うことにしました。9月のリトリートでやったような、あるいは以前ヨガスタジオでやっていた「エナジープラス」的な、オリジナルシークエンスのアーサナクラスです。

ムーンデイはアシュタンギにとって本来は休息すべき日なのですが、今回は掟破り。人数限定ですので、お早めにどうぞ。


以上詳しい日程や内容はウェブページからご覧ください。

www.chazenyoga.com


この間お山に行ったときに部長のヤッケを忘れてきてしまったので、防寒着を新調。そしたら「中目にいる犬みたい」だって。

しかし、中目にいるお犬さまと明らかに違うのは、ズバリ着替えがないことでしょう。

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毎日着ております

高等部スタート

本日冷たい雨につき、余裕のゆったりマイソール。

......と思いきや、大入満員の行列待ち。部長室もトイレ前も使って、犬の踏み場もない状態。

ど、どうしたんだ?

続いて、リニューアルしたヨーガ・スートラクラスも予想外の大入りで、用意したハンドアウトがぜんぜん足りない。

1月っていうのはみんなヤル気モードなんだろか?
もちろん、大歓迎ですが。


さて、第3章を始めるに当たり「CHAZEN学園としては高等部に入ります。今日はその入学式です」ということで、このクラスが何を目的にしているかなど改めてのたまってみた。

ここからがヨーガの本丸攻めであること(戦いではないけど)。
でも、マニアックに理論や瞑想を極めるのではなく、「この日常をどう生きるか」が本懐であること。

これまで3年スートラクラスをやってきて、特に第1章では難しいことを言いすぎたように思う。なので、これからは内容がいかに難しくても、できるだけ噛み砕いて日常レベルに落とし込むようにしようと考えている。そのためにも、準備の段階で私自身がマニアック方向に走らないよう調べすぎたり、知識を入れすぎないように心がけた。

そして、新しいクラスでは実践を多く取り入れることにした。
今日は3種類の短い瞑想を試してもらったところ、おもしろいことにふだん坐禅している人たちは、目をつぶるだけでも何か落ち着かないということだった。坐禅は半眼といって目を閉じないで行うからだ。慣れてないことに抵抗を感じるということもあるので、家で実践・実験することを宿題にした。宿題お持ち帰りもなかなかのお楽しみだ。

というわけで、高等部が好発進した。
先週やった「インド思想とヨガ」やギータークラスへのリクエストも上がってみんなのヤル気に気をよくしながら、ウェブページの次回スケジュールを更新していたところ、ふと案内文を見ると、とんでもない誤字に気づいた。

履修内容の「2. 第1~2章の内容の復習と探究」のところ、復習が「復讐」になってた。

げげー!

それ見たら、第1章第2章を終えた卒業生が「よくもあんなコムズカシイことを」と言ってお礼参りにやってくる姿が浮かんだ。

やべー!

CHAZEN学園の体育館の裏でボコボコにされるちゃみこさん......。

ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。もう決してそんなことはいたしません。
と口では謝りつつ、

でも、おまいらホントはそういうムズカシイの好きなんじゃねーか?
と心の中でつぶやくちゃみこさん。


あ、また妄想劇場が......。


ところで、今年はギータークラスも刷新することになりそうです。
近くご案内いたしますので、しばらくお待ちください。

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ずっとグーピーグーピー言ってみんなを試していた部長

差別と偏見について考えたら思い出したこと

見た目問題に関する写真展を見に行った。

差別と偏見について考えた。
偏見とはなんであろうかと考えた。

浮かんできたのは、脳性まひだった父の弟のこと。
生まれつき体が不自由で、後半生は寝たきりとなり、祖父母と前後して他界した叔父は、おじさんというよりはイトコのような存在で、親戚中がそう呼んでいたようにミツオちゃんと呼んでいた。若い時はよくウチに滞在しており、一人っ子の私は、家に友達がいるようでうれしくて、さまざまな子どもの遊びに付き合わせたものだ。

ミツオちゃんは運動機能には障害があってもそのころはまだ自分で歩けたし、明確な言語をしゃべれなくてもコミュニケーションはとれて、喜怒哀楽も豊かだった。思考には問題がないので五目並べをよくやった記憶がある。それにも飽きてくると、言葉の代わりにサインを考え出してゲームや遊びのルールをつくっては無理やり遊び相手になってもらったのだった。

その時の自分は純粋無垢そのものだった。
うまく歩けない、アーとかウーという言葉しか出ないミツオちゃんをただそのままの存在として受け止め、無邪気に遊んでいた。それはたぶん、ミツオちゃんが父の親兄弟みんなから愛されていたからだと思うのだけれど、奇異な目で見ることもなければ、接し方に戸惑うこともなかった。何もかもをただそのまま受け止めていた。

あるとき、2年くらい上の男子がミツオちゃんを見て「なんだあいつ、バカじゃねえの」と言った。

ひどく腹が立ったし、ショックだったので今でもその光景が忘れられない。
そういう体験を経て、あるいは必然的に仕入れるさまざまな情報から、私の中でもミツオちゃんに対する特別な目ができていったのだろうか。そのへんのことは覚えていない。

思春期に入った私は、今まで気にもしなかったことに嫌悪を感じるようになった。単にオッサン=汚いという思春期特有の感情で父の使ったタオルでは顔を拭きたくなかった。そのナゾの嫌悪感は、垂れてくるよだれを拭き拭きスプーンでごはんを口に入れるミツオちゃんにも発生した。同時にそう思う自分をよくないと否定する気持ちもあり、たいへん複雑な思いだったように思う。

その後ほどなくしてミツオちゃんは寝たきりになり、私も高校大学と親元を離れ、父の実家にもほとんど行くことがなかった。晩年は枕元でほんのご挨拶をしたくらいだった。こういう私の変化をミツオちゃんがどう感じていたのか想像すると、今でも心が痛む。

人は思春期を境に分別がつき、悩み多き自己に変わっていくのだろう。
オトナは思い込み、刷り込み、先入観、インド哲学で言うところのサンスカーラ(潜在印象)のかたまりだ。それはほとんどが無意識レベルに染み付いているものだし、それを是正しようと意識レベルで思えば思うほど浮き上がってくるものでもある。理性でコントロールしようとするのが分別なのだから、理性でなんとかしようと思っても限界がある。

分別を取り除くことはできないし、分別がまったくなかったら社会人として支障をきたす。それがオトナになるということ。無邪気にすべてをそのまま受け入れていた、あの純真だった昔に戻ることはできない。


ところが、だ。
昔の私に戻ることはできなくても、純粋無垢になる方法はある。

それがヨガ。それが坐禅

ヨガや坐禅は、分別を介さずにものごとをそのままとらえるためのプラクティスなの。
内山老師が「生命の実物」と言われたような、ただのいのちになるプラクティス。

人はオトナになる過程で社会生活に必要な分別を身に着けると同時に、いらない観念をもまとってしまう。コドモでさえも、学校や家庭でたくさんの刷り込みを受けながら育つ。それらを少しずつ捨てていくための練習をしているのがこの修行だと私は思っている。

このプラクティスはなにか別の優れた人になるためのものではなく、自分が本来持っていた、今でもちゃんとそこにあるはずの「ただのいのちとしての私」を取り戻すことなのだと思う。

だけど、いったん分別を身に纏ってしまった私たちにはそれが難しいので、体操風味でわかりやすくしたり、理論でもって理性にも働きかけながら、あれやこれやの手段を駆使してなんとかそこを目指しているというわけ。


冒頭の見た目問題に戻ると、当事者たちはあえて自らの姿を人目にさらすことによって楽になっているのだろうと想像される。隠したり、逃げたり、封じ込めてしまうことよりも、それをなんでもないこととして受け止めることのほうがずっと楽だとわかったから。本人が問題だと思わなければそれは問題にはならない。そんなことを思った。

こういう機会があることで、当事者も周囲もより自然に受け止められるようになっていくのだろうね。
もっと早くお知らせすればよかったけれど、この写真展は明日までやっています。

写真展「無自覚なボクが、いま言いたいこと。 I know that I know nothing.」 – LE DECO(ルデコ)ギャラリー・ルデコ


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分別がないことにかけては首位を独占する部長

プリミティブに還る

カラッと晴れるのが冬なのに、このところ空はいつもどんより。世界終末時計もぐっと進んだそうだし、リアルに地球の将来を案じてしまう。

今朝、目が覚めたら頭痛がして風邪の様相。
きのう雨の中を外出して邪気が入ったのかもしれない。マイソールクラスが終わってから断続的に寝続けて復活。あっためることと眠ることで軽い風邪はよくなる。それは身体からのアラートなのだから。

元気なときはたとえ昼寝してもせいぜい30分くらいだ。起きようとしても起き上がれなくて何時間も眠れるのはあきらかに異常だし、きのうやたらと果物やヨーグルトが食べたくなったのもふだんにはないこと。すべて身体から出された指示である。もしそれがデジタルで表示されたら「休息セヨ」とか「水分とビタミンを摂取セヨ」というものね。

CHAZENはよく言えばユニーク、自虐的に言えば風変わりなヨガスクールだけど、この展開で私はいったい何をしようとしているのか立ち止まって考えてみた。ひとことで言えばこうだ。

より原始的なトコロに還って身体の感度を上げ、心身を調えること。

たとえば、「風邪を引いたらしい→薬を飲む」という多くの人がなんの抵抗もなく行っていることを見つめなおし、自分が自分専属の医者になって処置をする。場合によっては、病院に行くべきかもしれないが、それを見極める力をつける。そういう身体とマインドを磨くのがCHAZEN学園の理念である。

なぜって、そういう身体があれば自信がつき心も安定する。こわいものも不安も減少する。

アシュタンガヨガのマイソールスタイルすなわち自主練形式というのは、自分で自分の身体と向き合うのに最適だ。坐禅はそれこそ回向返照の退歩を学すべしのとおり、原始の自分に立ち返る作業である。

さらには、みんなでお米作りを経験したのも、リトリートを始めたのも、より原始に還る経験を通じて身体の感度を高めるという目的のため。

たとえば、お山で火を焚いていると、これこそが現代人に必要な実践ではないかと思えてくる。いかに薪に火をつけるか、いかに危険を避けて温かさを得るか。あれこれ工夫したり、試行錯誤を繰り返すことで、なにかしらの身体感覚が発達していくのだと思う。そしてそれが知恵になる。

もはや原始の暮らしに戻ることなどできないけれど、電子機器に頼らない素の身体と感性、安定した心があれば、毎日は生き生きと躍動し、満足感の高いものになると思うのだ。

自分の手を動かして、自分の頭で考えて、暮らしを作ったら。
大地と、空と、水と、火と、風を感じて生きていけたら。

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炎のダンスに魅せられる


今年のテーマは「プリミティブ」ってことで。

その基本となるのが朝のヨガ習慣。これがあると、必然的に生活リズムが自然に近づくので、思考やマインドも調うわけです。夜明けも明るくなりつつある今、朝ヨガ習慣はじめませんか?

www.chazenyoga.com

つながることの喜び

昨日「インド思想とヨガ、そして仏教」の座学クラスを終えたら、夕暮れには疲れて眠くなり今朝はアラーム鳴っても起き上がれないほどだった。どうやら「気」を使い果たしたとみえる。

つい2週間ほど前に思いついてから、今私が最も伝えたいことをどういう形で伝えるか、参加者が知りたいと思っていることは何なのか、どうやったら興味をもって聞いてもらえるか、毎日頭の中はそのことでいっぱいだった。

結果的に参加された方たちがそれぞれに楽しみ、頭の中が整理された様子が見て取れたので、その安堵感でどっと疲れが出たのかもしれない。やり切った満足感かもしれない。ふだんの座学クラスにはこれほどのエネルギーを注がないので、たまにはパワー全開で取り組むのもいいものだ。

経験や知識に関係なくすべての人に楽しんでもらえる内容を考えたら、ちゃんとヨガの未経験者から座学クラスを数年受けている方まで幅広い層の方が参加してくださったのもありがたかった。7年目の今、座学にアンテナが立っている人たちが集まってくれたのも、今後どうやってヨガ哲学や禅のクラスを進めていくかの参考になり、私にとってもたいへん有意義な時間であった。

「インド思想とヨガ」については今まで何度も話してきたが、そこに仏教を入れたのは初めての試み。参考文献を読み漁る中で、自分自身の疑問に対する答えがいくつも見つかったので、もしかしたら私がいちばん収穫を得た人だったかもしれない。

たとえば、数多くの仏教スタイルがある中で、空海真言宗チベット仏教にも心惹かれるものはあるけれど道元禅にハマった理由が、ヨーガ・スートラにつながるものだと判明したこととか。なぜクンダリニーヨーガではなく、アシュターンガヨーガにきたのかとか。なーるほどがたくさんあった。

それから、大乗仏教についてもクリアになったことが多い。
道元禅師は自ら伝える仏教について「大乗でも小乗でもない」と言われていたという話を聞いて以来ずっと、それはいったいどういうことなのだろうと疑問というか好奇心が頭の片隅から離れずにいた。どう考えても大乗でしょ?と思っていたのだけど、お釈迦さまの元の教え(原始仏教)を重視する姿勢が大乗とは一線を画すところなのかなと、道元禅師の気持ちがちょっとわかるような気がしたり。きっとそういうカテゴライズ自体を違うと思われていたのだろう。

あくまでそう感じただけで本当のところはわからないけれど、正法眼蔵を読むための基礎知識として法華経を読んでいたこともあって、なんとなく「大乗でも小乗でもない」のニュアンスがわかったような気がしたのだった。

こうしてナニカ不明だったものの正体が見えてきたり、ナニカとつながってきたときにおもしろさを感じるのではないかな。それはかかえていたモヤモヤがパッと消えて視界が開けるような感覚だと思う。

「わかった!」

というときのソレ。
きのうはそれを電球が灯るイメージで「ピッカーン!」と表現したけど、まさにつながったときに電気が流れて光るという感じ。昨日参加した人が、星覚さんの本を読んでいたら「ピッカーン!」があったと言っていた。

ソレは新しい知識を仕入れたときに来ることもあれば、あるとき突然やってくることもある。

私はよく朝練中にソレが降りてきて、感動しながら練習していたものである。このメカニズムはよくわからないのだけど、おそらく練習しているときは頭が空になるので、その空になったスペースに閃きや啓示、答えが降りてくるのではないかと推測している。ちょうど「ない!ない!」と探し物をしているときは見つからないのに、ふとしたときに出てくるようなものだ。

インド思想を学ぶ意味のひとつは、その「わかった!」を導くヒントが得られることだと思う。
私たちが行っているプラクティスの先にあるものとプラクティスそのものがつながるとモチベーションも上がるように思う。

yogaはつながることだという話も出たけれど、人と人、心と心、いろいろがつながると発揮するパワーは急上昇する。まさにクンダリニーのように。

さて、今度の日曜日は新装版のヨーガ・スートラクラス。どんなクラスになるのか楽しみだ。

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スノードロップ

12月にお山に行ったとき、葉っぱもみんな落ちた枯野の中で、春が来たかのように蕾をつけている花を見つけた。不用意に踏んだりしないよう、まわりを囲っておいた。

今月行ったら、真冬だというのに可憐な花を咲かせていた。調べてみたらスノードロップという植物らしい。

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かなり私好みの花


よく見ると、ほかの木々もみなこの雪の中、芽吹く準備をしている。何度見ても感動するいのちの神秘。

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下の囲みがスノードロップ花壇、中央よりやや下にある木がカリン


少しずつ庭にある植物の正体が判明している。前の所有者はたくさん木を植え、植物を育てていたみたいだけれど、ジャングル化しててどこに何が植えてあったかもわからない。この子たちは誰に世話されるでもなく、誰に見てもらうでもなく、毎年花を咲かせていたのだろう。そのケナゲさと生命力にグッとくる。

そういえば、昨年4月の頭にこの物件を内覧したとき、落ち葉の中からクロッカスが咲いていた。すでに心は決まっていたけれど、この子に後押しされて、そのまま申し込んだのだった。

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朝やかな色が際立つ


冬来たりなば、春遠からじ。
いいときも、よくないときも、同じように受け入れて、ただ歩いて行きましょ。