CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

お山パワーでどんとこい

東京にいると、コロナコロナと四六時中脅されている感じだけれど、お山じゃあ、うっかりそれを忘れそうになる。というか、忘れてた。

咳をしても一人  by 尾崎放哉


8時に寝て、猛烈に熟睡してアラームなしで3時に起床。そして、果てしのない肉体労働......。
ああ、健康すぎるお山の生活よ。

雨が上がった今朝、シューさんのうんだけのつもりで出たところ......

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あれに見えるは!


うっすら雪をまとった浅間山にモルゲンロートが。

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神々しい......


軽装で出てきたから寒いけど、これはサンデーパークまで行かねばならぬ。

5分で景色は変わってしまうのだ。シューよ、急げ〜〜!

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小走り感出てる?


のろのろだったら抱っこして走ろうかと思ったけれど、おじいちゃん大健闘なり。急坂もぐいぐい登ったど。

陽の射し方はもう変わっていたけれど、裾野の雲海というか雲河がおみごと。

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あっぱれ


お山パワーで免疫も最強になった気がする。

よし!

汚いから掃除するのではない

非常時には特に極端に走らないことが肝要である。パニックになって必要以上に怖がることも、世の中騒ぎすぎといって軽視することも避けるべき。どうしたらいいのかわからないときは、まず落ち着くために呼吸を調えて、アシュタンガの練習なり瞑想や坐禅なりで頭の中を断捨離するのがいい。余計なものがなくなると、肝心なものが見えてくる(ハズ)。

今月は20日が金曜日で祝日のため、久しぶりに2部制のレッドクラスwithミニワークショップをやるつもりでいた。それできょうサインナップの紙を出しておきながら、考え直して撤回した。すでにサインナップした人ごめんなさい。

その日の光景を想像したのだった。
前半後半の入れ替え時のごった返しや、狭い空間に大勢が集まるところを......。

「濃厚」だよ。

ということで、20日(金・祝)はマイソールクラスになりました。今月はレッドクラスなしです。


さて、「特定少数」の練習生しか来ないCHAZENなので、ここで感染防止対策をアピールする必要はないが、できることはやっておこうと掃除をしっかりやることにした。消毒液エタノールが貴重品になったのでエッセンシャルオイルに比重を移し、殺菌・抗ウイルスに効果が高いと言われているティーツリーやユーカリのスプレーを空間や雑巾にシュッシュ。実際の効果がいかほどかは定かではないが、アロマ効果で気分もすっきりする。

あえて床掃除の雑巾を両手を並べた幅の小さなものにして、しっかりと圧がかかるようにした。これだと往復する回数が増えるのでトレーニングとして負荷もかかり一石二鳥。裸足になってタッタッターと一休さん掛けするのもまた気持ちがいい。

......などと自己満足していた私の脳裏に、永平寺に参禅したとき、修行僧が言った言葉が響いてきた。


「掃除は汚れたからするものではありません」


俊隆老師も言われていた。

トイレは汚いのではありません。たとえ掃除をしなくてもそれはきれいなのです。いや、きれいである以上です。だからこそ、汚いからではなく、修行としてそれをきれいにするのです。それが汚いからきれいにするのだとすれば、それはわれわれの道ではありません。

鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド 2』藤田一照訳 サンガ刊より


はいっ! 改めます。

それにしても汚い・きれいという二元的な、相対的なものから離れるのは至難のワザだ。無意識のうちに、オートマティカルに二元化しているのだから。


明日はいつもの茶禅会。「修行として」の掃除をしてから坐ります。どなたも歓迎いたします。

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業者さんに頼んでエアコンの掃除もしたばかり。

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これは毎日できないけどね

沈黙がもたらすもの

マイソールクラスは沈黙の中で行われる。
聞こえるのは呼吸の音だけ。
言葉を交わさなくてもエネルギーは交換し合っている。
言葉を交わさないのに連帯感が生まれている。
いや、言葉を交わさないゆえに生まれているというべきか。

ひとりでもできるアシュタンガのプラクティスや坐禅を、わざわざ集まって行うのには意味がある。

接心の目的は、修行を安定したものへと発達させることにあります。接心では言葉によるコミュニケーションを行いません。しかし、他の人々と一緒にいることは大きな励ましになります。言語的なコミュニケーションはともすると表面的なものになりがちです。しかし、言葉を発しないでいると、あなたたちの間で深いコミュニケーションが促され、心がとても繊細になっていきます。沈黙を守ることで直観が開かれるのです。
鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド 2』藤田一照訳 サンガ刊 より


すれ違う人には無関心でも、人が集まるところでは「沈黙ほど気まずいものはない」と感じる人がほとんどだ。そういうときの言語はやはり表面的にならざるを得ない。心から話したいことを話しているわけではなく、その場を取り繕うためにだけ交わされる会話のなんと多いことか。テレビをつければ、そういう会話ばかりが聞こえてくる。

おしゃべりをやめたとき、深いところにあるものが語り始める。見えなかったものが見えてくる。沈黙があるからこそ、大事なことが浮かび上がってくる。人との語らいがいっそう楽しく意義のあるものになる。

ヨガや禅に言葉を介在させる必要はほとんどない。むしろ、沈黙から得られるものこそがヨガであり、禅である。

練習の間、ただ自分の呼吸の音だけを聞くというアシュタンガの沈黙に慣れたら、何か手仕事をしたり、散歩をしながら沈黙の時間を味わってみるといい。たぶん、その沈黙を心地いいと感じているだろう。

沈黙がこわくて交わす会話は、まだ家にあるのに品薄だからと買うトイレットペーパーと同じ。
会話の多くは「不要不急」のものだ。
もちろん不要不急の会話のなかに大事なことがたくさん含まれていることは確かだけれど。

考えてみれば不思議なことではあるが、集会やイベントが中止になるなかCHAZENでは沈黙のために人が集まってくる。集まらなくても可能なことではあるが、わざわざ集まっている。

人から見たら不要不急に見えるかもしれないけれど、決して不要不急ではないと思っている。ただし、それに固執してはいけない。状況を見て必要とあらば柔軟に対応する準備はできている。

次に何が来ても大丈夫。
何が来ても来なくても、すべてはなるようになるのだから、心配する必要はない。

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噴火しても大丈夫

確かなことなどないのさ

3.11の震災でごく当たり前の活動が制限されるような危機を生まれて初めて経験したと思ったら、10年もたたないうちに二度目がきた。ドミニクパパがよく言っていた "insecure"って言葉を思い出す。

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何しろ先のことがわからない。
今回の感染がうまく収まったとしても、きっとまた似たような脅威は現れるだろうし、そうこうしているうちに巨大地震に襲われる確率だって高い。平和な世の中がずっと続くというのはありえないという前提で生きていく必要があるだろう。

家賃が払えなくなったら......って、最初から今にいたるまでそればっかり言ってるわ、私。

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こういうことがあると経済活動は大打撃を受ける。やっぱり食べるものを作る自給自足的な生活がいちばん確かなのかもと思えてくる。田んぼやっておいてよかった。いざとなったら米を作る自信はある。いや自信なんてなくても誰でも作れる。

今後リモートワークが普及するのは明らかだろうし、都市に密集するのはナンセンスだ。

いずれにしても、これを機に潮目が変わる。
結果は誰にもわからない。
われわれは24時間のプラクティスを粛々と行うのみ。


昨日散歩の帰りにシューが小走りに走った。
のろのろ歩きしかできなかったのに。
おじいちゃん、がんばれ!

うれしくて、記念にブレブレの写真を撮ってみた。

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部屋の中だと滑ってよく走れなかったけれど

今こそアシュタンガと禅の出番です

企業で時差出勤やリモートワークの対応が進んでいるため日曜のマイソールが混むかもしれないと思い、本日のマイソールは前半7時半、後半8時半以降に来てもらうようお願いした。案の定出席率が高くて前半が満員、後半に来た人は空き待ちとなったものの、部長室フィニッシングなどの混乱がない分スムーズに入れ替えができた。

外出したくない人がいて当然だと思っていたけど、逆に練習したほうがいいと思っているらしいエネルギーでみなぎっていた。さすがはCHAZEN生、単なる気ばらしでないことがよくわかっていらっしゃる。

COVID-19に関してはまだ確実でないことが多く、どこまでやったら安全なのかわからない。わからないということが不安を増長させている。これは私の推測なのだけど、クルーズ船で多数の感染者が出た背景には、確実な情報が入らないなかで船に幽閉された人たちのストレスがあるのではないかと思う。

こういうときはカラダを動かすのがいちばんいい。
スポーツという意味ではなくて、瞑想的になれることをするのがいいと思う。やっぱりアシュタンガやね。

ということで、暫定的にスケジュールを変更し、今月中旬までは土曜日にマイソールクラスをやります。土日に人が増えそうなのでスタート時刻も30分早めます。詳細はウェブページからご確認ください。

www.chazenyoga.com


本日の入門講座にはお申し込みがなかったので、マイソールのあとに臨時の茶禅会を行った。
昨日突然決めたのに多くの人が集ってくれたし、みなさん平常心で、いろいろわかっていらっしゃり、こちらのほうが励まされたような......。

私のお布施として、「禅マインド ビギナーズ・マインド」から心に関する話を紹介した。俊隆老師のお話には、禅というよりヨーガ・スートラとも重なるインド哲学的なものも多い。そういうところが私のツボにはまったのかもしれないなと今さらながら思う。何より、「正法眼蔵随聞記」みたいに時代が古すぎたり、出家した僧侶向けに説かれている話ではない分、ダイレクトに私たちの日常に生かせるのがいい。

何箇所かランダムに読んだのだけれど、時宜にかなうと思われたエピソードがこちら。

たいていの僧侶はお金を稼ぐための仕事をしていたのに対し、俊隆老師は道元禅師の教えとして「仏教徒としての道を忠実に行っていれば人が支えてくれる」と信じて、お金を稼ぐことをせずにいた。ある日、俊隆老師のお寺で料理を手伝っていた人が米櫃が空なのを見て自分の家からお米を持ってきてくれた。それはほんのわずかだった。その人の家にも少ししかなかったのだ。けれども、それを聞いて多くの人たちがお米を持ってきてくれてお米が増え、今度は持っていない人に分けてあげた。そうして、人にお米を分けてあげればあげるほど、お米をもらうことになった......というお話。

十分ありますよと報道されているのに、トイレットペーパーが買い占められてしまう不思議。ほんとに最後のひとつが切れて買いに来た人は困っただろうに。ないときにこそ分かち合う。ないからこそ、人に差し出す。それこそがまさに今私たちのもつべき心なのだろう。

仏教徒としての教えを守っているならば仏に守られる」ということを私がカラダで理解するようになったのはこの数年のことだ。もちろん私は出家していないし在家として得度もしておらず、戒律を守るというような次元の話ではないのだけれど、以前の私は悪いことを予想するのが得意であった。今でもつい「もしも」のワーストケースを想定しまうところがある。それがあるときからなぜか、あるべきように生きていれば、そうそう悪いようにはならないという自信のようなものが生じてきて、無駄な心配がかなり減った。

正しい行いができているかどうかは甚だアヤシイのではあるが、欲を手放すと代わりに安心感が生まれるような気がする。

それを教えてくれたのは星覚さんである。星覚さんは具体的にこうしなさいということは言わないのだけれど、その在り方を見ていてそういう確信を得た。どんなに知識が豊富でも、どんなに説教が上手でも、俗世の欲にまみれたお坊さんを見ていたら、その自信は生まれなかったと思う。金銭的な欲もさることながら、偉そうに見られたい欲とか、俺が俺が欲とか、お坊さんもけっこう欲がおありになるものだ。

つくづく、禅とのご縁をありがたく思う。
アシュタンガでカラダを動かす瞑想をしつつ、禅の教えで心を正しい方向に向けていられることの幸福を思う。


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神楽坂名物の猫さん(名は忘れた)。どっしりん

いつも心に星空を

きのうは銀座で「蕎麦の会」。
マスク嫌いの私もさすがにマスクをして外出した。
おやつの時間帯だったので、ウィルスの心配もミニマムな、3人で蕎麦屋まるごと貸し切り状態。

前回原宿でやったとき私はギプスをしていたそうなので実に4年ぶりだ。
次回やるときは、前回はコロナの時だったって思い出すんだろうな。

暗くなるまで語らって、3人で有楽町のほうへ歩いていたら、三日月と金星が並んでいた。
次回このことも憶えているだろうか。


神楽坂の空にもどこかの国の国旗のような月と星。
ベランダに出たらオリオン座が見える。
目の前にはシリウスがほの青く、まるで作り物の星みたいに煌めいていた。


そうだ。東京にも空はあるんだった。


いつも心に星空を。


たっぷり眠って、ゆっくり坐って。
どうぞ、よい週末を。

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粗挽き系の蕎麦がおいちかった

アシュタンガとストレッチ

先日のヴィンヤーサヨーガには思わぬ効能があったようで、その後のアシュタンガの練習でカラダが開いているとか、調子がいい、股関節の可動がよくなったと明るい顔で報告をいただいた。

ほう、そいつは意図してなかったな。
だいたい、聞けばみんな次の日の筋肉痛はほとんどなかったと言う。ただ一人筋肉痛になったのが自分自身であったとは、参加者の筋肉痛を予期した私の予期せぬ結末であった。

思えばそれもこれも当然の結果だ。私がいちばん練習不足なのだから。
ヴィンヤーサヨーガでこれでもかとやったポーズのほとんどが股関節のストレッチであるが、それはあえて狙ったわけではなくて、ここ2週間ほど調子が悪くてギクシャクし続けていた私のカラダが、ストレッチしてもらうのを望んでいたのだと思う。

先週歯医者のリクライニングした診察台の上で治療を待っていたら、なぜか膝から曲げた脚を両手で抱えて胸に引き寄せたい、なんなら首の後ろにかけたいというカラダの声に気づいた(もちろんやってません)。

股関節に限らず、カラダが伸びたり開いていると単純に気持ちがいい。足取りも心も軽くなる。その効果は実感しやすいがゆえに、人はヨガスタジオに通うのである。

片や、アシュタンガはストレッチが目的ではない。

かつて私は、太陽礼拝の2回目まではヴィンヤーサヨーガでやったようにダウンドッグで片足を天井に上げて脚の付け根をストレッチしてから両手の間に戻るっていうのを習慣にしていた。ほんの一瞬だし、イケナイことをしている自覚はないもんだから、シャラート先生の目の前で堂々とやったら、「なにやっとんじゃー、こらー!」と。その後のカンファレンスでも、練習に入る前のストレッチは無用!とお達しがあった。

あんな数秒のストレッチが禁止なら、世の多くのマイソールクラスで行われているような、難しいポーズに入る前にストレッチしたりするアイアンガー系アプローチは何をか言わん。

純粋なアシュタンガはカラダを動かしながらもその目的はココロにある。
ストレッチしたからカラダがより開くとか、そういうことを目指してないのね。ポーズはただの道具だから。

そんなわけでCHAZENではアシュタンガの練習にストレッチを入れるのは基本的にはNGだけど(もちろん例外もある)、ストレッチ自体を否定しているわけではないので、陰ヨガとか、今回のヴィンヤーサヨーガのような特別クラスではディープストレッチを大いに体感してもらいたい。

ストレッチの気持ちよさが習慣になってアシュタンガの練習につながるのであれば、ストレッチもまたよろし。一定の期間練習を続けている人は両者の分かれ目を認識した上で、効果的に取り入れたいところ。

季節は春。カラダ開くとき。


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ミモザはこれが満開かな

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クリスマスローズも咲いた