CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

2月もスートラクラスはオンラインで

緊急事態宣言が延長されましたので、2月もヨーガ・スートラクラスはオンラインで行うことにします。

おそらく3月はCHAZENでの開講に戻りますので、もいちどオンラインのスートラクラスを楽しんでいただけたら幸いです。

www.chazenyoga.com



日曜日の朝、私のマットの上でコテっと寝た理事長をベッドに運んだら、マイソールが始まるころにはこんなことになっていました。

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ギョッとする絵かもね


やってきた練習生が「シューちゃん、生きてるの?」って話しかけていました。


笑笑


はい、生きております。

毎日、よく食べ、よく眠り、よく徘徊しております。
あったかい日はお散歩もしてます。

るーるるるる〜っ、きょうもいい天気〜♪

時はうつろうもの

如月です。
まだ朝は暗いけれど、日差しが明らかに変化してきています。換気で窓を開けるのも少しずつ楽になっているような気がします。人が右往左往している間にも季節はちゃんと移ろっています。寒さやコロナなど、つらいと思われることも永遠に続くわけではないんですね。耐えていると思わずに時間の流れにまかせて過ごしていれば、気づいたときには状況が変わっているものです。

昨年お山から持ち込んだスノードロップが、ミニサイズで咲き始めました。前の家はあんなに広かったのに......なんて嘆くこともなく、小さい鉢植えならそこに合わせてそれなりに咲く姿がかわいくてたまりません。まだまだ続くコロナ社会でしばし身を潜めて生きていく私たちの姿にも重なります。

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華のない花が好き


バックベンドのサポートして背中に乗っていたら、こちらを見つめる視線を感じました。

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かえるくん......


そろそろ植物たちが春の準備を始めています。

シュー理事長は、きょうもおいしそうに焼き芋を食べています。

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たまたま、カメラ目線


いろんなことがあるけれど、そう深刻にならずにうまくやりすごして、生命の実物を楽しんでいきたいと思います。

愚の如く魯の如く

ムーンデイの朝。
久しぶりにどっしりと腰を落ち着けて坐れた朝。ああ、この世俗の垢と切り離されたような夜明けの清浄さを忘れていた。ずいぶん汚れをためてしまったものだ。

次いで、世の中の喧騒にまみれる前にヨーガ・スートラのサンスクリットと向き合う。1日いちスクリット、3日でサンスクリット。パソコンで辞書を開く前に、手書きの文字だけを眺めていたら、いつもよりすっと解読が進んだ。

読みたい本が数冊出てきて図書館に予約を入れた。少しヤル気が戻ってきたかも。

犬を寝かしつけてから、?カ月ぶりのヘアカットへ。
今回もまたボッサボサのアミダばばあになってしまったので、整ったあとの気分が一段とすがすがしい。

帰りに買い物をしてくるつもりが、ガランとした街の雰囲気のせいか、お腹が空いていなかったせいか、その気にならず。地下鉄駅のホームで「スガー、シネー!」と叫ぶ若い男性の声。慢性的な病気の人というよりも、鬱憤がたまっている人の声に聞こえた。解雇させられたとか、そういう目に遭った人が、そうでもしないと収まらないとでもいう風な声に聞こえた。

田中真紀子が管政権を”安倍家の生ゴミのバケツのふた” と言っていて内心ウケてたけれど、問題は生ゴミのバケツのふたなのではなく、処理せずにためこんで腐敗した生ゴミすなわち日本の政治の構造や体質だから、首相をターゲットにしてもたぶんあまり意味はないのだろう。

悪いのはこのワタシ。
先日、世の中が悪いのは私がちゃんと坐ってないからと冗談まじりに書いたけれど、ほんとうにそうなのだと思う。私が敗北したのはシューの発作に対してではなくて、自分自身に対して。生ゴミを片付ける気力がなくて放置し続けていたからだ。そうして汚れがたまっていく。

そうやって自分のゴミには目をつぶりながら、他人のゴミには文句を言っている。そういうことなのだな。まさに「他人の噂話禁止」だ。

今年も愚直にただひたすら修行を続けるという意味で、年頭のスローガンとして書いた言葉が「宝鏡三昧」というお経の一節。

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教室の後ろに貼ってある小学生の習字みたいな「ちゃっ筆」にて


うまく解説しているサイトがないかなとググったら、灯台下暗し。星覚さんの雲水喫茶がヒットした。

unsui.net


今年もCHAZENは禅の精神でアシュタンガヨガを続けていきたいと思うております。世間的にはまさに「なんじゃそりゃー」「???」でしょうが、それこそ「愚の如く魯の如し」で、ひたすら生ゴミ処理に励むしかないのであります。それが「愚の如く魯の如し」です。

今なすべきことは......

とうとう医療崩壊が始まって、コロナに感染しても入院できない、診察してもらえない、救急車を呼んでも搬送先が決まらないらしい。いよいよ私も、自分が感染した場合の段取りを考えるようになった。感染するときはするのだろうからそれも想定したうえで、でも医療現場に負担をかけないためにも、自身の身体をまもるためにも、自らができるだけのことをしなければならない。

が、CHAZENマイソールの「できるだけのこと」にマスク着用は入っていない。マスクをしてマイソールをするくらいなら、CHAZENをクローズして家で練習してもらおうと思っているからね。できれば換気もしたくないけれど、これは止むを得ず。もう少ししたら暖かくなるから、もう少しがんばってもらうしかない。

コロナを診療しているお医者さんのブログを愛読しているが、エビデンス云々ではなく、現場を見ていて感じることを書いていて、こういう現場の声が聞きたいと思った。報道されるものはどれを信じたらいいのかわからなくなるが、個人のブログだからへんに阿ったりするところがなく、まじめくさったりする必要もなく好きに書いていらっしゃるのがよい。

で、先日はコロナ側から人間界を見て書いてらしていて、ちょっと和んだ。なんでも電車や映画館やスポーツジムは人がいっぱいいても誰もしゃべらないし、窓が開いているので「残念な場所」なのだそうだ。しゃべらないとコロナに嫌われる。

blog.drnagao.com

ここでも沈黙は武器(別の意味でね)。
そして、これによるとコロナ氏の一番の天敵は自然免疫が力強い人間だそうだ。そして免疫が鍛錬されているのが、正直やりにくいとも。

子どもが感染しても発症しにくいのは血管が強いからとどこかで読んだけど、経年劣化がない血管ほど耐コロナ性が高くなるってことかな。このブログの長尾先生も、血管がもろくなっていると重症化のリスクが増すと言っておられる。メタボの男性で喫煙者だったりするとかなりリスクが高いそうだ。

そういう意味では、血液サラサラ効果の高いプラクティスを行っているアシュタンギはそう簡単にコロナに感染しないと思うのだけど、どうなのだろう。長く定期的な練習をしている(もちろん節制した生活をしていることが前提)アシュタンギが感染したり重症化した事例はあるのかな。自分がその第一号になったりするかもわからないので軽率な言動は控えるが、「ヨガをやっている」人が感染した事例は複数知っているので、単にヨガのアーサナ練習だけでは感染防止に不十分だとはいえる。

たとえば、ヨガをやっていてタバコも吸っているという人はざらに存在するが、アシュタンガの朝練をちゃんと続けている人ではまずないと思う。初心者のうちは呼吸がちゃんとできないので喫煙と両立するかもしれないけれど、アシュタンガで深く呼吸をし続けている人が喫煙とは考えにくい。

それに食べすぎたら翌朝の練習が気持ち悪くなるので、朝練生活は暴飲暴食も遠ざけるようになる。
→はい、私はこれで飲んだくれをやめました。

練習自体は必ずしも朝でなくてもいいのだろうけど、夕方練習したらお腹すくから、そのあとガッツリ飲食して、寝るのも遅くなって......となれば、エクササイズの効果はあっても生活習慣は変わらない。

それで朝練を続けるアシュタンギを別枠で考えているのだけど、どうだろう。

そしてアシュタンギは、その深い呼吸で血管を若返らせているのだから、マスクしないことで感染を予防しているともいえる。って言ったら世間的には炎上するのかな(ここでは炎上してもマッチ1本分くらいだけど)。もちろん、CHAZENだからそう言えることであって、不特定多数が参加するスタジオだとマスクなしはリスクが高くなるからNGだとは思う。

冒頭で書いたように今たいへんなことになっていて、医療関係者や保健所・関係するお役所の方などが疲弊しないようにと祈るばかりだけど(もう十分疲弊してるか)、代わりに診察したり、看護をしたりできない私たちは、アシュタンガの練習を続け、節制した生活を続けることで、静かにこの危機を乗り越えるしかないのだと思う。

平和のためのアクションを起こすことも大事だけれど、坐禅をすることで平和な世の中を目指すのが禅の態度であるのと同じようにね。

きのうの星覚さん坐禅会で、そんなことを再認識した。
ひとりひとりの小さな暮らしを調えていくことが平和につながるという星覚さんのお話は、星覚さんがそれを実際に実践しているからこその重みがある。禅を理解するのは難しいことではない。ただちゃんと実践するのが難しいだけなのだ。

シューのこと、コロナのことも手伝って、無力な自分を感じることがあるけれど、自分が誰かや何かを変えようなどと思わずに、まずは自己を調えるしかないのだと思う。それが周囲に伝播して、そのまた周囲の人たちが影響を受けていったら、静かに世の中が変わっていくはずだから。

世の中がよろしくないのは、きっと私がシューのことで手いっぱいで最近坐れていなかったからかもしれないw

地球の皆様にお詫び申し上げて、自分の修行をしっかり続けていくだけだね。

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お鼻もしっとり、血色よくなってきたかも......

もう敗北

中医学を取り入れている獣医さんのもとでシューの痙攣発作の治療を開始したのが今月6日。1週間後の13日に2回目の鍼灸をしてもらい、このまま順調にいくかのように見えたのもつかの間、17日の夜に発作が出てしまった。

16日の晩に体が熱くなっていたので警戒していた。ちょうどスートラクラスの前日で、11月も12月もスートラクラスの前に発作があったので、嫌な予感がしたがその晩はセーフ。大丈夫だったと安心した翌日の夜に来たのだった。来月もこのジンクスが当たるのか。

もはや発作自体には慣れたので、熟練看護師のような落ち着きで対応し、発作の動画も撮影できた。発作がおさまったあとの数時間、興奮状態で歩き回るので、ぶつかったり転んだりしてもいいように買っておいた折り畳みの広いソフトケージを広げて自由に歩かせる。前回まではハーネス&リードでコントロールしていたので、これでかなり楽になった。

とはいえ、見守りは必要だから寝ることもできず、翌朝は疲弊して介護人はゾンビみたいになっている。同じ徹夜でも楽しく一晩語り明かした時とは大違いで、どんよりと、魂が抜け落ちたよう。当のお犬さまは、ほぼいつもと変わりなくお元気でいらっしゃるのに......。

肉体的な疲れよりも、うまくいくと思ったのに発作が出てしまった失望がゾンビ化を促している。ホメオパシーに期待を寄せたあとの発作のときも同じ。期待というか願望が強すぎるから、失望する。

よーし、今度こそと対戦したものの、わずか2ラウンドで強烈なパンチを食らって倒れたような......。

私はいったい何と戦っているのだろうか。勝負しているつもりはないのだけれど、無意識のうちにそんな気分に侵襲されて、すぐには起き上がれない。

それでも、一晩寝るとゾンビは生き返る。
次のラウンドを戦う気満々で立ち上がり、起死回生を狙う。前回の発作の間隔が6日間、今回が13日間だから、もう少し鍼灸だけで様子見てもいいのではと淡いor甘い期待を抱いて動物病院へ行ったのだが、発作の動画を見た先生に、抗てんかん薬を使いましょうとあっさりタオルを投げ込まれてしまった。

ゴングが鳴った直後のノックアウト......。

確かに発作の動画は、ちょっと怖いくらい激しい。興奮状態が続くので、それだけ負担がかかっているのだろうから、発作は薬を使っても抑えるしかないと観念した。

というわけで、半月もたたないうちに敗北。
以前のクッシング症候群のときはなんとか薬を飲まないで治したいという抵抗が功を奏したけれども、今回はただの悪あがきだった気がする。それでも自分で望んだことだから納得だ。試さなかった後悔よりはずっといい。そう思えば、ムダな抵抗によってかかった時間も費用もムダではなかったと思う。

敗北してしまえば、気持ちはスッキリする。
副作用の心配もほとんどないお薬らしいので、これで発作が抑えられますように。

発作は出ても、食欲はもちろん全開だし、体力が落ちている風でもないシュー理事長。それどころか、6日に3.3kgだった体重がきのうは3.5kgになっていた。てんかん発作には糖分がいいという(ホントかどうかわからないが)情報を見たので、おやつに焼き芋をあげていたりするためか?

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お疲れさまでした、理事長

沈黙という武器

久しぶりに朗報です。
茶禅会がオンラインの星覚さん坐禅会になります。

正法眼蔵随聞記』を最後まで読み切りたいという思いだけで続けてきた茶禅会ですが、この非常事態宣言下にシューさんの発作が重なり、オンライン化を考えたとき、オンラインなら自主練的な茶禅会である必要がないと気づきました。

オンラインよりもリアルが好まれるのがCHAZENではありますが、たとえオンラインでもホンモノのお坊さんがいるといないのでは大違いです。最近とみに、禅が伝わるのはコトバによってではないと痛感していたところでもあり、ちょうどそのタイミングでの切り替えです。

先日のヨーガ・スートラクラスをきっかけに、世の中の悪(とされるもの)に対する禅のスタンスについて考えています。最初はシャバ世界の価値観に引きずられていて、本を読んだり話を聞いたりしても理解できなかったことが、禅にどっぷり浸って数年を過ごすうちに、知らず知らずその意味するところがわかってきたように思います。

思い返せば、星覚さんと禅の旅やCHAZENで接心、また応量器飯台のワークショップなどを通じて同じ釜の飯を食い、そのふるまいや言動から少しずつ影響を受けていったように思います。指導を受けたという感じはなく、ただ同じ空間と時間を過ごした積み重ねにより、少しずつ私のカラダに禅が染み込んでいったのでしょう。

それこそがまさにインド系プラクティス(実践)の本意だと思うのです。なんだかよくわからないけど、プラクティスを続けていたらそうなっていたというのがインド系。現代人は、合理性や即効性を求めると思うのですが、インド系は非合理的で遅効。だからこそ、現代人に必要なのでしょうが、だからこそ、わかりにくくて続かないのかもしれません。

先日のスートラクラスにおける「無関心」について、それは「沈黙」と言い換えてもよかったかもしれません。ヨーガも禅も基本は沈黙の修行です。沈黙によって自分を変革していく修行はまた、他をも沈黙によって動かすものなのだと思います。武力や言論の力ではなく、黙って坐ることによって変革をもたらす。変えようとするのでもなく、沈黙によって何かが「変わる」のです。

今の私にはそのパワーの大きさがイメージできるのですが、これは頭で考えても理解し難い。人は長い間待っていられず、大きなアクションを起こして早く変えようとします。今はみんなが早くコロナが収束してほしいと考えているでしょうが、まだかまだかと思うほど長い時間に思えるものです。

マイソールの練習を長く続けている人には、なんとなくであっても、この沈黙の力がわかるのではないかと思います。それがスポーツで身体を動かすエクササイズとの違いなのかとも思います。そして、それこそが「祈りの力」であると私は思っています。

と思いつくままにつらつら書きましたが、うるさい黙れ! ですね。
続きは24日の坐禅会で。

www.chazenyoga.com

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朝の祈りの先にある空

オンラインでも充実のスートラクラス

オンライン版ヨーガ・スートラクラスは、予期せぬトラブルもなく無事終了。
最初に約90分ほぼ一方通行で講義をしたのだけれど、いつもの位置に座って話しているのに目の前には誰もおらず、というシチュエーションにちょっと緊張した。人前では緊張しないけど、人がいないと緊張するってどういうことだろう。

参加者側の顔ではなく画面共有された資料を見ながらの進行だと、表情も見えないし、笑いとかリアクションの声も聞こえないから、なんだか独り相撲をとっているような、裸の王様になったような居心地の悪さを感じる。

が、そこを超能力で透視しつつ(!)ペースを計りながら進んでいく。だいたいは見当つくものだ。ここはきっと瞼が閉じそうになっているだろうなあとか、このへんは興味深く聞いているんじゃないかとかね。

最後のシェアリングタイムで感想を聞くと、実際カメラとマイクをオフにしていると緊張感がなくなるだろうから、ちょっと難しい話はやはり眠くなっていたそうだ。でも、概ね興味をもって聞いてもらえたようで、画面越しではあっても、しっかりと手応えが感じられた。あらかじめ話すことを資料にまとめておくと、参加者にポイントが伝わりやすいというのも、オンラインならではの成果。

オンラインでもちゃんと伝わっている。
そこに足りないのは言葉にはできない、リアルな人のぬくもりだけなのかも。

今回好評だったのが、第1章にどんなことが説かれているかおさらいしたこと。
初期からの参加者は以前第1章を読んだときはさっぱりわからなかったことがクリアになったようだし、第3章から参加した人たちも、つながりがわかって理解が深まったようでなにより。

それと、想像以上に反響があったのが仏教との関連で話した「四無量心」のこと。さらっと紹介する程度に思っていたら、それ以上に具体的な質問や投げかけが出てきたことが嬉しい。終わったあとで、ああいえばもっとわかりやすかった、あのエピソードを話せばよかった、などとさまざまな思いが浮かんだ。それで、今さらながら四無量心をググってみたところ、ああこの訳語を当てておけば違和感がなかったのにというものが......。

四無量心 - Wikipedia


最初からこの展開を想定して深く掘り下げるべくリサーチしておけばねえ......。

無関心→平静......といえばよりしっくりするとは思うのだけれど、実際それが意味することが何なのかは、仏教に近づいて、仏教の中に入って実際に肌で感じるしかないように思う。言葉のニュアンスは実際に体験することで得られるものだから。続きは来週のオンライン坐禅会で星覚さんと話しましょう。

それにしても、学びの中から課題が生まれるというのはすばらしい。実はそれこそが学ぶ意味なのだと思う。結論を出すのではなく、考えるきっかけをつくる。課題を引き出す。それこそが学ぶ楽しさなのだと思う。

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シュー理事長の学生時代......