CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

武相荘へ小さな旅

何かにつけ迷い揺れていた30代のある日、フッとこんな考えが降りてきたのです。

美しいか美しくないかを判断の基準、行動の規範にすればいいのだ、と。

社会的な常識や人の思惑などに縛られず生きていくには、自分の中にルールができていなければならない。そのルールを美学におけばいいのだという考えが降りてきたのでした。人に笑われようとも、四面楚歌になろうとも、自分が美しいと信じる方向に舵を切ればいいのだなと思ったら、勇気が湧いてきたのを覚えています。敷かれたレールの上を走り続けることができない「はみ出し者」には、それが必要だった。

ただし、そのためには美観を確立しなければなりません。ヨガに出会う前の30代は芸術方面にどっぷり浸って、観たり聴いたり、読んだり飲んだり、人と会い、旅をして、今思えばほんとうにいろいろな経験をしたものだと思います。ほんとうにラクになったのはインド思想を知ってからですが、そういう土台の上に今の私が形成されていることは間違いないでしょう。

美意識というのは天性もありますが、実際に経験して磨かないと育たない。それはアシュタンギが意識せずとも呼吸を深くしていたり、バンダを効かせていたりするようなもので、日々のプラクティス以外に育てる方法がないのです。

そんなことを思ったのは、久しぶりに白洲正子の本を読んだからです。青山二郎小林秀雄に鍛えられてものを見る目を養っていった韋駄天お正の話を読みながら、韋駄天お茶味の恥ずかしいトライ&エラーも決して無駄ではなかったのではないかと、そんな風に思えてきました。

韋駄天というのは足が速いことから、思ったら即走って行ってしまうような正子さんにつけられたあだ名。思ったときには実行している韋駄天お茶味としては、大いに親近感を抱いているのです(走る世界がかなり下界にはなりますが)。


先月の印哲喫茶に遡りますが、そのとき「葬式無用 戒名不要」という白洲次郎の遺言の話をしたら、急に「武相荘」に行きたくなりました。白洲夫妻が移り住んで野良仕事をしながら暮らした家が記念館になっているのは知っていましたが、米を作ったり山で柴刈りすることを覚えた今なら、二人の暮らしぶりが具体的に想像できるような気がしたのです。

先週のとある日、理事長の状態も落ち着いている今がチャンスと行って帰って4時間の小さな旅を決行したのでした。

小田急線の鶴川という駅から歩いて15分ほど、郊外型のチェーン店が立ち並ぶ道の向こうに、そこだけ別世界のような武相荘がありました。

f:id:chazenyoga:20220219161146j:plain
典型的な農家のつくり


イギリスの貴族は田舎暮らしを楽しみますから、留学時代にインスピレーションが湧いたのでしょうが、田舎に豪邸を建てるとか、疎開で一時的にというのでもなく、好き好んで荒れた農家を買って住むという、今流行りの古民家改修を太平洋戦争の時代にやってらっしゃったという先取りぶりがとんでもなく。

中学生の白洲次郎が親から買い与えられ芦屋を流していたという舶来の車。

f:id:chazenyoga:20220219155145j:plain
このTシャツとデニムの次郎さんが最高にカッコいい


田畑専用の愛車も。

f:id:chazenyoga:20220219160306j:plain
これは実際に使っていたものと思われ


ところで、新百合ヶ丘から2駅先の鶴川なので想像はしていたのですが、武相荘の味わいとは真逆の、新興の住宅がずらりと並ぶ風景には唖然としました。コンセプトをそろえた外国風の家々に目が眩みそうです。

おそらく、田畑が多かった土地ゆえに大規模な開発がなされたのでしょう。郊外型チェーン店も含め、正子さんの美観にはそぐわないと思われる光景に、今ご存命だったらどう思ったかなと考えてしまいました。やはり東京から近いところはそうなりますから、私が移り住むのは「限界集落」にしようと思いました。

それにしても、茅葺きの家のつくりはすごいです。柱とか梁とか、木だけど100年でも使える。買い取った当時は荒れていたのを、手を入れて生涯住み続けたそうです。入ってすぐの応接間になっている部屋は、牛がいたところだったとか。しかも、それを「無駄のある家」として、その不自由さを楽しみ、あちこち手を入れて生きた家にするセンスがずば抜けていると思うのでした。

f:id:chazenyoga:20220218190307j:plain
梅の季節でありました

恐山の番組と随聞記を読む会のお知らせ

先日のヨーガ・スートラクラスでちらっとお話しした南直哉老師の番組がアーカイブで見られるようですので、リンクを貼っておきます。

コロナの第4波で搬送困難が相次いだ関西で訪問看護をされている方が恐山の老師のもとを訪れ、その胸のうちを老師に語るという内容です。老師の話されることがひじょうに印象的だったのですが、恐山という舞台からも印哲喫茶のテーマでもある死生観について考えるヒントをいただきました。お時間のあるときにゆっくり観てください。

海外向けのプログラムなのでナレーション等英語ですが、会話は日本語です。

www3.nhk.or.jp


それから、オンラインの星覚さんと随聞記を読む会を27日に行うことが急遽決まりました。新しい試みとして、坐禅は各自行っていただき、「正法眼蔵随聞記」の購読のみオンラインで行います。みなさまのご参加をお待ちしております。

www.chazen.yoga

f:id:chazenyoga:20220218190810j:plain
なんちゃってスウェットパンツの理事長

離欲について思い出したこと

世間的には3連休となった先週の金曜日はレッド+呼吸法の実践クラスで、定員を超える予約が入っていたにもかかわらず、大雪(にはなっていないのだが)で体調を壊す人続出で、出席者が半分に。それはそれでちょっと番外編っぽく、楽しい時間でした。

そして、本日はヨーガ・スートラの日。
ついこないだ印哲喫茶で濃ゆい時間を過ごしたので、あっさりお茶漬け風味のシナリオを用意していたのですが、質問がどんどん出てきて、台本どおりには進まなかったのでした。本題からは離れてプルシャについて言及してしまったゆえと反省しております。が、今までこういった参加者からの疑問でクラスが展開していくことはなかったように思うので、参加者の成長ぶりがうれしかったとです。

ただ、その質問に対しての答えは「よう知らんわ」

お釈迦様が「無記」と答えられたように、アートマンがほんとうに存在するかとか、死んだらどうなるかというようなことは、誰もわからないし、どっちでもいい。プルシャはある意味方便なのだと思います。少なくとも、このクラスにおいて明確にしておく必要はないと考えています。

とはいえ、疑問に思ったことは今後もためらわず質問してください。


さて、今日の本題は「離欲」に関するもの。ただこれは「物欲=いけないもの」というような単純なことではないと思っています。むしろ、どんどん買って買ったことすら忘れるくらいであれば、そこに執着は生まれないように思います。

2017年の記録を見たら、まさしくそのことについて書いていました。

あれこれ迷わないってことは、少なくとも執着がないってことだ。

物を買うこと自体よりも、それを後悔したり、罪悪感をもつことのほうが、心を波立たせているわけだから。

やるときゃやっちまえ!
そして忘れろ!


あはは、我ながら言いたい放題。

chayoga.exblog.jp


てなわけで、欲しかったら買え! 鉄瓶? どんどん買っちゃえ!

chayoga.exblog.jp

こんなに気に入っていたのに、あっけなくお別れよ。

今なお、書い直すかどうかときどき考えてる。ほんとうは薪ストーブの上に置きたかった。未練たらたら。執着たらたら。

chayoga.exblog.jp

f:id:chazenyoga:20220213191528j:plain
今日のおやつ3種盛りとその匂いにそわそわする理事長

やっぱり侘び飯

食養生のことを考えると、ちゃんとしたものを食べたいと思うわけです。いいものは食べなくていいけど、なるべくなら正体不明のあれやこれやが入っていないものを食べようと思うのです。

しかし、そういう観点で品物を選ぶとなると、普通のスーパーなどでは購入したいものが限られる。かといって、すべて安心安全なオーガニック製品にこだわるのも、これまた違うような気がしております。さらには、できるだけプラスチックゴミが出ないものをなどと考えたら、もう買えるものがなくなってしまいます。

最近、土井善晴著『一汁一菜でよいという提案』のことを思い出して読みました。何年か前に話題になって、読みたいと思っているうちに時が過ぎてしまった本です。お父様の土井勝さんは「きょうの料理」などでおなじみの料理家で、私の世代ならきっと記憶にあるでしょう。想像どおり、私の読みたいことが書いてありました。すなわち、栄養価や健康食としての面よりも、シンプルで慎ましい日本の食事で暮らしのリズムをととのえるという意味においての一汁一菜の提案なのです。

私が推奨する「侘び飯」とも似ています。

chazen.hatenablog.com


改めて「侘び飯」でいいのだなと思いました。糖質制限じゃとか、なんじゃとかかんじゃとか面倒なことを考えなくても、加工品の原材料をチェックしなくても、侘び飯食べてれば大丈夫なんじゃと。そもそも、変わったものを食べようなどと思わなければ、あるいは手軽で安上がりとか、おいしいものを求めなければ、スーパーで「買えるものがない」などと嘆く必要はなかったのでした。

さほど手間をかけなくても、素朴なものを作ればいいのです。具だくさんの汁を作ればいいのです。酒粕があるので、鮭のアラを買ってきて粕汁を作りました。父がコレを肴に晩酌していたことなど思い出しながら作る冬の定番メニューです。長らく鮭を入れないベジ粕汁ばかり食べていましたが、鮭を入れるとごちそう感が出ます。鮭から出汁と塩分が出るので、みずみずしい大根や根菜を煮て、出汁も調味料も入れずに酒粕だけで色白に仕立てるのがワタシ流。

f:id:chazenyoga:20220206174344j:plain
玄米は心のこもった宮城米


鮭が入っていることで「侘び」感がちょっと削がれますが、侘びた風情で食べると、玄米をすごくよく噛むことに気づきました。考えればそれもそのはず。お茶室で侘び茶をいただくときにガブガブ飲んだりしませんし、懐石をいただくときにかきこむように食べたりしません。

やっぱり侘び飯がいい。
世間一般からすると「侘しい食事」とネガティブにとらえられるでしょうが、わかる人にはわかってもらえるでしょう。健康面だけでなく、暮らしの嗜みとしてもおすすめしたい侘び飯です。


chazen.hatenablog.com

chazen.hatenablog.com

治すのは漢方ではなく自分

基本の勉強を終えて漢方養生指導士となった9月から、実践研修のつもりで漢方相談を始め、初心者としては十分な機会を与えられている。そればかりか、相談案件第一号からヒットの感触を得ることができ、何らかの改善が確認されたという基準で見ると打率は9割9分ほど。

それもこれも、相談者の体調や性質を多少なりとも知っているからこその結果で、初めて会う人を対象にしたらその数字はありえない。それに、漢方相談といっても、生活習慣のアドバイスやヨガを含めてのサポートのほうが漢方薬よりもずっと効いているような気がするから、漢方の経験が浅くても十分お役に立てることを実感した。

始めたばかりで遭遇した事例が「ワクチン後遺症」。マスコミの報道からはシャットアウトされているけれど(実質的な報道規制?)、それ相当の人がワクチン接種後の体調不良に悩まされているという。私が懸念しているのは、もっと後から出てくるかもしれない個別の、あるいは社会全体としての事象なのだけれど、打ったあとすぐに出てくる後遺症だけでもそれなりにあることは確かだ。

日常生活に支障をきたしてしまうような体調の問題があるのに、西洋医学の検査結果からするとどこも悪くないと言われる。こんな西洋医学から弾かれるような体調不良には、ヨガや漢方がその本領を発揮するチャンスだ。

ワクチン後遺症で仕事も休職し、ヨガの練習にも来られなくなった練習生の漢方相談がスタートしたのは秋ごろ。西洋医の先生に処方してもらった方剤には効き目が感じられないということで、そのときの症状に合わせてチョイスした方剤を処方してもらったり、スポットで購入して試してもらいながら経過をみた。

変化の兆しが出てきたのは、朝の練習に来るようになってから。最初はヨガなんてできる状態ではないと思っていたそうだけれど、呼吸法とごくゆるいリラックスヨガから始めてもらった。そのときに、ほっとしたのだと思う。心身が解放されて涙があふれてきているのを見て、きっと大丈夫だろうと思った。

なかなか倦怠感がとれなかったのが、毎朝CHAZENに来るようになってからはみるみる元気を取り戻して、表情も明るくなった。しばらくしてアシュタンガヨガの練習も再開し、最初は太陽礼拝だけから始めて、少しずつポーズを増やし、クリスマスにはフルプライマリーまで戻すことができた。

ただどうしても微熱と熱感がとれないということなので、文献を読み漁ってこれはと思う方剤を探した。最初のは顕著な効果がなかったけれど、方向性を変えて試してもらった方剤が当たってほぼほぼ解消された。無事に職場にも復帰して、今度は別の疲れもある中、ついに昨日、最後まで続いていた体調不良が気にならなくなった、治ったと報告してくれた。

嬉しい。漢方を学んだ甲斐があった。だけど、治したのはもちろん私ではない。漢方でも、ヨガでもなく、相談者自身の治る力なのだと思う。治すために自分自身で積極的にそれらを取り入れて、食事にも気をつけて、ひたすら努力した集大成の結果なのだ。

西洋医学の薬のように、ただ医者の言うとおりに薬を飲んでれば治ると思っていては、その治る力(いわゆる自己治癒力)はなかなか発揮されない。漢方的に言えば「気・血・水」のバランスが崩れて不調が出ているのだから、漢方薬、ヨガの呼吸法やポーズ、食養生などの方法を使ってととのえてあげればよい。それを行うのは自分自身であり、自らの気づきなのだと思う。

治療においても結局は自らの修練というところがCHAZENらしさか。他力のようで自力、自力のようで他力。それが修行&漢方養生ヨガの極意なり。

そういったわけで、何かのお役に立てるのではと体調不良の改善を目的とした「漢方養生ヨガ」を始めました。詳細のご案内がまだできていないので、気になる症状がある方はまず簡単にお問合せください。

それから、今月23日には痛みについての漢方喫茶を行います。痛みといってもいろいろありますが、主に頭痛について私の実験結果をもとに即効性のある漢方方剤をいくつか紹介します。漢方は長く飲まないと効かないという固定観念をくつがえすほど、すぐ効くのです(ケースバイケースではあります)。この記事のテーマとは矛盾しますが、努力なしで気づいたら治っているというタイプの使い方です。

また生理痛その他の痛みにも触れて、鎮痛剤に依存しないための漢方利用についてもお話しします。頭痛持ちの方も、たまに頭痛がある方も、もろもろの痛みに鎮痛剤を使いたくない方も、ぜひお気軽にご参加ください。

www.chazen.yoga


あ、漢方相談以前に、患者第一号がいたのを忘れてました。修行はなさっていませんが、自己治癒力がハンパなく、腫瘍が消えておしまいになったそうです。

どうです、このやる気。このらんらんと輝く目。人間年齢で20歳は若返ってます。

f:id:chazenyoga:20220203182939j:plain
糖質制限無用になったので恵方巻きもいける

命について考えること

少し前に映画『心と体と』を観た。すごくいい。作り方がうまい。ストーリーも、テーマも、表現もすばらしい。

ありきたりではないラブストーリーが主旋律として流れる。2人を結びつけるのが鹿の夢。その鹿たちの映像がまた美しい。まるで鹿が台本に合わせて演技したかのようで、心にその姿が刻まれた。

けれども、見終わったあと頭から離れなかったのは鹿よりも牛だった。舞台となるのがハンガリーの食肉処理場で、かわいらしい牛の顔が登場したあとに、屠殺され、切り裂かれ、食肉になっていくところが、ドバドバと流れ落ちる真っ赤な血とともに映し出される。

多くの人が目を背けたくなるであろうシーンに、監督の描きたかったテーマは実はこちらなのではないかと勘繰った。そしてそういう視点でこの映画を眺めれば眺めるほど、秀逸さが際立つような気がした。

人はこれを見て何を思うだろうか。


私はまず、このような仕方で牛を殺して肉を流通するシステムと、その部分を想像することもなく享楽的に肉を消費する人間の傲慢さに違和感を覚えた。それは牛がかわいそうとかそういう感情ではなく、牛を食べるために殺すことそのものへの疑問でもなく、食べるために牛を育て、その牛を機械に乗せて屠殺して出荷するという一連のシステムに対する違和感であった。

見終わってからもずっと考え続けた。
もしそれが牛でなくてキャベツであったなら、あるいは漁船に引き上げられた大量のサンマであったなら、なんの引っかかりもなく見ていただろう。

その違いはなんなのだろう。
私たちは野菜であれお米であれ、他の命をいただくことで生きていられるわけで、それが牛になっただけで、なぜこんなに違和感を覚えるのだろう。

かつて同僚が言っていたことを思い出す。「肉屋さんの看板とか、車に、かわいいブタちゃんの絵が書いてあったりするじゃないですか? ああいうデリカシーのなさがすごくイヤなんですよね」と。そのときの私はそれが「デリカシーに欠ける」という認識を持たない、まさにデリカシーに欠ける人間だった。

そんな私が、やがてアヒムサーや不殺生戒について知り、肉を食べなくなり、えらそうなことを言うようになったけれど、動物を殺して食べること自体を否定しているわけではない。人類は狩猟をして生きてきたわけで、それ自体は不自然なことではないと思う。ただ、大量の家畜を育てて食べることに必然性があるのかと疑問をもつようになった。旨味という快楽のために、痛みや恐怖を知る動物の肉が大量に生産される意味はあるのかと。しかも、あやしい飼料を与えられ、肥育ホルモンまで注射されている。

それを考えるとき、いつも私の頭には「ヘンゼルとグレーテル」が思い浮かぶ。お菓子の家に誘い込んで子どもたちを太らせて食べようとする魔女と私たち人間が重なる。


ちょうど『命をどこまで操作してよいか 応用倫理学講義』という本を読んで、動物の命の重さについて考えていたところでもあった。臓器移植や遺伝子操作、体外受精など、科学をどこまで生命操作に利用していいのか、感情で考えたら絶対に片付かない問題だけに、学問的なアプローチが必要であることを感じた。

けれども、インド思想的に煎じ詰めれば、どれもこれも人間の欲望でしかないような気がする。先日の印哲喫茶のテーマにつながるけれど、人間の命は自分や誰かの所有物ではない。全宇宙の調和の中で生命の息吹を与えられた存在なのだと思う。その調和を大きく崩してほしくないと願うばかりだ。

よくよく突き詰めれば、自分の所有物などなにひとつない。それなのに、この地球上のあらゆるものを私物化しようとしている、思い通りに動かそうとしていることがおそろしい。あらゆる意味で謙虚にならねばと思う。

東京にいると、そういうことに思いを致しにくい。神様が創造したと想像できるものよりも、人間が果てしなき欲を満たすために作ったものばかりが目につくからだ。山の分校にいたときは、いつもそこに神様が作った世界を感じることができた。「ああ、ありがたい」と感謝の気持ちが湧いてくる自然の美しさがあった。ありがたくない不便さや不快ささえも、道理として受け止められた。

ずっと都会にいるとそういう感覚が鈍る。もうそろそろ限界だ。

お山から連れて来たスノードロップたちも、恋しい恋しいと泣いている。

f:id:chazenyoga:20220202173434j:plain
えーん、えーん


印哲喫茶は毎回違うテーマの単発講座でありながら、命について考えることが印哲喫茶そのもののテーマのような気がしています。先々が楽しみな印哲喫茶です。次回は3月6日になりました。どなたさまもお気軽にご参加ください。

www.chazen.yoga

印哲喫茶が濃密すぎる件について

印哲喫茶第1回「バガヴァッド・ギーターの世界とその死生観」は、なんだかめちゃくちゃ濃ゆいクラスになりました。従来のギータークラスでも、第2章は始めにしてハイライトでもあり、とても1回では終わらないのですが、今日はイントロ抜きでそのハイライトだけを味わい尽くした感じです。

ギーターはもう数えきれないほど読んでいる私ですが、まだまだこれまで気づかなかったような新しい面が見えるのです。どれだけ読んでも、そのときの自分の心境はもちろん、修練の進捗状況を反映するかのように別の見方を示してくれます。何度でも再発見があり、何度でも新しい学びと気づきを与えてくれる、ただならぬ書物なのだと改めて感心しました。参加者も総じてそのようなことを感じた様子でした。

ギーター初心者もいたのですが、ヨーガ・スートラのクラスで土台ができている方たちだったので、長々と説明しなくてもすっと理解できたようです。ギーター → スートラという順番で進むとスムーズなのですが、最初にスートラで鍛えられていたのでギーターがわかりやすく感じられたかもしれません。

かくして、よけいな説明なしに大事なところだけをじゃんじゃか取り上げたので、濃密さが際立つ結果になりました。こんなクラス、ふつうはできないだろうと思います。ヨガスタジオとか、カルチャーセンターとかで、ここまで濃い話はできないでしょう。できるとしたら、終夜営業の飲み屋ぐらいかと。

あらかじめ自分に言い聞かせておいたことがあります。
「しゃべりすぎるな」と。テーマがテーマだけに、マイク持たせたら握りしめたまま朝までしゃべり倒してしまうことは必至。途中、アレもコレも持ち出したくなるのを抑えて、でもやっぱりしゃべりすぎました。

あれ? これって最初っから毎度毎度言ってることじゃないですか。

chayoga.exblog.jp


変わったのはシューさんの座り方くらい。

f:id:chazenyoga:20220128200050j:plain
オヤジと言ってるうちが華か


でもね、しゃべらないでいるの、無理ですわ。朝まで飲みながら、飛沫飛ばしまくりながら、語り合いたいですわ。

いつの日かやってみたいな「印哲酒場」


参加者で、養老先生の話を引き合いにコメントしてくれた人がいて「おお、ストライクが来た」と思ったのですが、その時点ですでに終了時間を大幅に超過しており、そこには深入りせず若干不完全燃焼で終了しました。また次回、あるいは今後の印哲喫茶に続けたいですね。そういうキッカケとかトリガーを与えるべく、参加者にはどんどん発言していただきたく思います。どうぞよろしゅう。

余命宣告的には今ここにいないはずだった理事長は、一言も話さず多くを語っていますがね。

f:id:chazenyoga:20220130180514j:plain
グルにはかないません


次の印哲喫茶もギーターを予定しています。詳細は近日中にWebページにアップしておきます。