CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

いのちから与えられるもの

早いもので、シューがお空に上ってからひと月が過ぎました。

仏教がそこにあったために短期間で苦しみから抜け出すことができ、その後福井の天龍寺で摂心にも参加し、おだやかな毎日を送っています。

失って初めてシューの存在の大きさを知ることになりました。CHAZENはすべてシューのおかげで成り立っていたと気づいたのです。

なんの意図も計らいもなく、ただそこにいるだけで人を和ませ、また励ましてもくれました。存在そのもので多くのことを教えてくれました。私が努力したことなどその足元にも及びません。

考えれば考えるほど、CHAZENをCHAZENたらしめたのは理事長の存在でした。

犬谷シュー平のナイスショット by O嬢


そして、私にとってシューは、天から与えられた最良のパートナーでした。もしかしたら神そのものだったかもしれません。

ケーキかぶりつき後のどろどろシュー


11月は引っ越しの混乱やら、シューの旅立ち、おまけにインターネットの不具合などいろいろありましたが、オンラインで継続しているCHAZENサンガからは、想像以上によい感触を得ております。

ところで、いつぞやの捨てる寸前に実がなっていることに気づき引き取ってもらったトマトは、M嬢にたくさんのプラーナを与えて元気にさせながら、自分自身もすくすくと育っているそうです。その写真が送られてくるのを毎回楽しみにしている私ですが、先日なんと色づいたとの報告をいただきました。

えー、12月なのに〜?!

青い実もたくさんついている


生ゴミから生まれた「生ゴミ太郎」、よくぞここまで育ってくれました。私の手を離れてもしっかりと大地に根差し、力強く生きている生命は、まるでCHAZEN生そのものです。

家族として、友だちとして、また食べ物として、私たちはみんな他のいのちからプラーナをもらい合って生きているのですね。

山の中でひとり暮らしていても、ひとりではない。たくさんのいのちに支えられて生きております。

仏教力(コラム再録)

ストーブを焚き始めたので、薪小屋で作業をしていたら、目の前に小鳥がやってきた。そんな近くまで来て大丈夫なのかなと思うほど間近で、私に警戒することなくドラム缶の蓋にたまった水にちょこちょこと嘴をつけて飲んでいる。その仕草が愛らしくて、しばらく眺めていた。

小鳥がたくさんいて囀っているが、とびきり小さくて黒と白とグレーの模様が特徴的なその鳥はどうやらヒガラらしい。わざわざ近くまで寄ってきたそのヒガラは、なんだか私にメッセージを伝えに来たように見えた。

「生きとし生けるものすべてを、等しく慈しむのが真の愛なんだよ」

と、それを告げに来てくれた気がしたのだ。ほんとうの「愛」とは、仏教でいうところの慈悲の心であることをそのヒガラが思い出させてくれた。

愛情というのは、一般にはポジティブですばらしいものと捉えられているけれど、仏教的には苦しみをもたらす原因となるもので、愛情が濃く深くなるほどに、別れがつらくなり、ときには嫉妬を生んだり、憎しみに転じたりもする。

人でも動物でも長く一緒にいると特別な感情が生まれ、愛情がわき、愛着をもつようになる。それが私のものであるという所有の感覚を生んだり、失いたくないという愛執になる。私が苦しくつらく感じたのは、まさにその愛執ゆえ。

シューを失ったあとは、世界が一変した。数時間前までものすごいパワーで立ち働いていたのに、まったくやる気がしない。思考停止。身体だけではなく頭の中までも、次はアレをして、次はコレをしてと休むことなく段取っていたのがすべて止まった。

代わりに湧いてきたのは「なぜ私はここにいるのだろう。なんのためにここに来たのだろう」という感覚だった。まるで、何かの魔法をかけられてここに移住してきたが、その魔法が解けてしまったかのようなどんでん返しだった。

幸いだったのは、インド思想を伝えるのが私の生業であったこと。翌日から経典に触れ、講義の準備をするなかで、少しずつ自分に戻っていったように思う。

「世界が一変した」ように思ったけれど、物理的環境にはなんの変化もない。火事で家が焼けたとか、土砂に流されてしまったわけでもない。それなのにまったく違って見えるのは、私が「世界」と思っているものが、単に自分の妄想によってつくりだされたものであるからだ。そこにある樹木一本でも、景観を遮る邪魔な存在にもなれば、ときに勇気を与えてくれる神のようにもなるものだ。

私たちは無意識のうちに、<私>という存在を中心にして、あらゆることに意味付けをしているのだろう。そしてその認識によって「世界」をつくっているのだろう。その<私>ですら実体はないことにも気づかずに。

それを実感したら、自分のなすべきことがおのずとわかってくるような気がした。

生きとし生けるものすべてを慈しむ。

自然に近い暮らしはそれを間近に体験できる反面、きれいごとで済まされない現実もある。部屋に入ってくるカメムシはその都度つまんで外に出しているが、昨日はコバエのような虫がたくさん出てきて、センサーで灯る階段の照明が虫に反応して消灯されなくなり、申し訳ないけれど「死んでもらいます」と仕事人になって一掃した。合掌。

そういったリアルな現実を含めて、手足を動かしながらさまざまなことを学びなさいというのがグル(シュー)からの伝言なのかもしれない。

そんな成り行きで、これまで手つかずだった庭の手入れを始めた。家の中は相変わらず放置したままで、あの日シューが起きたら飲ませるつもりだった漢方の錠剤さえ片付けられずにいるけれど......。

先日原始仏典のクラスで、中村元先生が親しみのもてる日本語に訳してくださったという話をしたけれど、なかでもニルヴァーナを「安らぎ」という言葉にしてあるのがすばらしいと感じている。そして、修行は何か偉いものになるためではなく、この安らぎを得るためのものだというそのこと自体が私に安らぎを与えてくれる。

これら仏教の教えがあったからこそ、あのひどい苦しみから短時間のうちに抜け出すことができた。

今回のことはまさに日頃のプラクティスを試される「試合あるいは本番」であった。以前に与えられた本番の機会、すなわち骨折とその後の身体的苦痛、アーサナができなくなる苦痛はわりと優秀に切り抜けた私でも、今度ばかりはあやうく落第しかけた。対戦相手もピンからキリまで。どんな強豪が来てもしっかり立ち続けられるよう、ひたすら仏教力を磨いていこう。

シューが日中過ごす部屋を前日にしつらえたばかりだった

シューちゃん雲になる

昨日の朝、思いがけなくも突然にシューちゃんがお空へ旅立ってしまいました。

2年前から毎年この冬は越せるかどうかと案じてきたので、もういつ逝ってもいいと思ってたのに、覚悟はできていると思っていたのに、実際は無理でした。

いつものようにスヤスヤ寝ているようにしか見えないシューがかわいくてかわいくて、もうどうしようもなくかわいくて。

つらくてつらくて、苦しくて苦しくて、のたうちまわるような痛みを味わってます。

できることなら私も一緒にお空に上って行きたい。


今朝はオンラインでマイソール生の最後の見守りをして、午後サンガのみなさんにオンラインで見送ってもらいました。

銀装束に愛用のピーターラビットの毛布、おやつを携えて出発


朝練に行く途中シューさんみたいな羊雲を見たとメールで報告してくれた人がいたのですが、別の練習生も朝練の帰りにシューちゃんの形をした雲が出ていたと写真を送ってくれました。

耳が後ろに流れているところとか、上の写真のまんま


東京でお空の雲になっていたとは......。最後まで練習生思いの理事長でした。

この雲を見たら、なんだか少し元気になりました。

シューを愛してくれたみなさま、どうもありがとうございます。

嵐のように

10月30日日曜日は、2012年にスタートしたCHAZENのアシュタンガヨガ・マイソールクラスに一区切りがついた日でした。

さすがに最終日とあっては欠席者もなく、久しぶりの人も駆けつけてくれてマイソールは大賑わい。それでもまだ前半組の人たちには最後に二言三言挨拶の言葉を交わす余裕もあったのですが、後半からスートラクラスにかけてはもはや修羅場。マイソールが終わるやいなや更衣室のカーテンやら何やらを外して......みたいな。

というのも、スートラクラスが終わったら残った荷物を車に積み込んで「ほな、さいなら」と出発したから。多くの人はこの設定自体に目を丸くしていましたが、これが私の流儀なのです。ゆっくり片付けてもう一晩泊まったら、翌朝やっぱりマイソールをやらないと気が済まないタチなんで、当日すべてを終わらせる段取り。

ガランとしたキッチンに理事長室を置いて、最後の監督業務。玄関に飾ってあった犬谷シュー平のユニフォームを着てもらいました。

 
この位置から見守るのは最初で最後


スートラクラスは2章から新しく始める人たちも参加して、これまた大賑わい。これまた最後の日というよりは始まりの日として、伝えたいことをいつものちゃみこ節で語り、いつものようにスカッと終わりました。

多くの人がCHAZENと出会えてよかったという感想を述べて、これからのCHAZENに希望をつなぐようなコメントをされていたのが印象的です。

いつも時間オーバーで、それも30分以上の超過が当たり前のスートラクラスが、時間通りに終わったのもこれが最初で最後です。もはや個別の挨拶などなしで私は車を取りに行き、残った人たちが荷物を下ろすという連携プレーの始まりです。載らないんじゃね?という量の荷物をなんとか押し込んで、じゃあねと手を振って、無事東京を後にしました。

まさに嵐のようです。
センチメンタルにもならず、しみじみとする余裕もなく。

いいんです。
だって、終わりではなく始まりなんですから。

前日くらいから私の頭の中にはずっと藤井風の「帰ろう」がリフレイン。さわやかな風とともに去って、でもそこから始まるというこのシナリオは、自分が考えていた以上にすがすがしく気持ちのよいものでした。とはいえ、シナリオどおりに進んだのは、CHAZEN生のつながりの堅固さあってのこと。その絶対的な安心感なしには、このようなすがすがしい気持ちにはなれなかったことでしょう。後ろ髪引かれるような思いはゼロでした。

お山に向かって車を走らせながら、なんだか生前葬をしてもらったような気持ちになりました。このままあの世に行ったら思い残すことがないいい最後だなとか考えながら。

一難去ってまた一難。お山に着いたら着いたでまた嵐の始まりですが、1日からは新しい自主練マイソール部隊の練習も始まり、オンラインでそれを見ていたら、感じたのはやっぱり絶対的な信頼でした。我がことながらすごいチームが出来上がったものです。

ということで、新しいCHAZENサンガが好発進しています。

これまでの10年間にかかわりのあったみなさま、このブログを読んでくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。このブログはたまに更新するつもりでおりますので、思い出したときに見にいらしてください。10月いっぱいで閉じる予定だったウェブサイトは、なんとまだ契約が1年以上残っていたことに気づきトップページのみ残してあります。

ただし、URLは変わっているので(というか元に戻った)こちらからどうぞ。

chazenyoga.com


チームCHAZENは、最高に最強で、永遠に不滅です。

カープじゃなくてCHAZENのCですよ

山また山で昼練

お山ではできるだけ自転車に乗ろうと思っていて、車より先に自転車を買いました。

先日その自転車をお山に運び、試し乗りをしてみましたが、目標地点の遥か手前で退散でした。何せ我が家はけっこうな山の中なので、坂ばっかりなのです。ここは歩くしかないというような坂はもとより、車で行き来しているときは気にならない勾配でも、自転車だとキツい。ギアをいちばん軽くしてチンタラチンタラ。これじゃあ足代わりにはなりません。

引きこもり生活で足腰がかなり弱っているし、心肺機能も衰えたのを自覚しているので、毎日少しずつ慣らしていこうと決心しました。ということで、お山ではこれから「昼練」をします。最近、早朝は老犬の介護に追われて自分の修行時間が持てないのですが、昼前後はだいたいシューさんが熟睡していることが多いので、その時間を狙うことにします。

ところで、例のトマトを引き取ってくれる方が現れて配達しに行ったのですが、その日は暑くて、半袖のまま外で立ち話していたら蚊にボッコボコに刺されたほどだったんですよ。それが翌日急に寒くなりました。

その翌日、ご近所のキャンプ場から見える八ヶ岳に雪。

自転車だとゆっくり写真が撮れる


南アルプスは全体的にうっすら雪化粧。

さぶくて手がちめたい


坂道で玉砕しながらも、この景色が見られるなら昼練もがんばれそうな気がしました。

翌日は晴れて、山の雪もほとんど消えてました。東京に帰る道すがら、この地ではお初のシカに遭遇。地元ではそうとう嫌われてると思いますが、なんとも愛らしいシカちゃんたちです。

必ず止まってこっちを見てるんだよね


甲州街道に出ると、富士山がもうしっかり雪を戴いていました。

赤信号で停車中@四輪車


これが私の移住先です。
いちばん近いスーパーまで8キロくらい? 昼練がんばります。

命乞いする植物たち

いよいよ今のシャーラーとお別れするときが近づいてきて、毎日が右往左往の悪戦苦闘、落花狼藉で青息吐息......

室内の物は少ないけれど、ベランダの鉢植えが問題だ。いくつかはお山に運ぶが、温暖な気候でないと育たないものもある。貰ってくれる人を募ってみたが、はかばかしくない。マンションのエントランスに「ご自由にお持ちください」と書いて置いてみようと管理会社に連絡したらソッコー却下された。

仕方ねえ、捨てるっぺ。
と、処分する植物たちの目星をつけていたところ、ある朝、処分リストのトップに入っていた枇杷の木が実をつける準備をしていることに気づいた。

かあちゃん、おらを捨てねえでおくれ


この枇杷の木は、練習生が差し入れてくださった枇杷を食べたあと、種を土に植えておいたもの。植えたことすら忘れていたのに、ひとりでぐんぐん大きくなっていった。大きくはなったが何年たっても実はならなかったのに......。

斬られることを知ってか知らずか、間際に実をつける琵琶の木がいとおしくて、ビワちゃんという名前の猫を飼っている練習生に半ば強引に引き取ってもらうことにした。来年6月には、おいしい実が成りますように。


さて、お次はトマトだな。

ところで、余裕がなくて報告できてなかったんだけど、ベランダコンポストから出てきたキュウリと思ってたのは実はメロンだった。そう、いつかのスートラクラスで出した、あのグズグズのメロンの種から出てきたのだった。ちっちゃいメロンがついたけど、うどん粉病にかかってたので、さよならした。

そして、正体不明だったほうの植物は、グーグル先生に聞いてトマトと判明した。こちらもコンポストでできた土の栄養のせいかすくすくと育っていたが、さすがにこれから寒くなるし、もはやタイムリミットだ。きょう処分のため引っこ抜いた。

トマトの青い匂いが鼻を刺激して、残念な気持ちがつのり、ふと抜いたものを見たら実がついているではないか。

おまえもか〜!

あわててもう一度土に戻した。

かあちゃん、おら渾身の力を振り絞ったどー


なんなんだ、この植物たちの訴えは。

誰か、このトマトを引き取ってくださらぬか?
この子らの命を助けてくださらぬか?

見殺しにはできぬー。

始まりの旅

週末にお山に行ってきました。
仮ですが、お山の家を「空庵」という名前にしようと考えているので、以下そのように呼んでおきます。

前回最後の砦である布団部屋を片付けて、とりあえずではありますが、人を招き入れることができる程度になった空庵に、初めてのゲストがお泊まりしました。友人が大きい車で荷運びを手伝ってくれたのです。私は助手席でシュー殿のご接待に専念することができて楽をさせてもらいました。

若干珍道中でしたが無事八ヶ岳エリアに到着し、まずは予約しておいたヴィーガンランチのお店へ。古民家をうまく使ったカフェの空間に歓声を上げます。

和洋のレトロが織りなす店内


次に、運ばれてきたランチプレートに歓声。ひとつひとつがものすごく手の込んだ、自分では絶対作らない(作れない)系のお料理です。

やるなあ


お味がまたたいへん結構で、十分な量があり(玄米お代わりしたからか?)、大満足です。

私はヴィーガンではないし、ふだんマクロビなど、この手のレストランには行きません。お高いわりに......ということが多いのですよね。それが、さすが山梨。たいへんリーズナブルなお値段で、東京以上のクオリティ。古民家インテリアも楽しく、おまけに窓からは山並みが見えて抜群のロケーションという、すてきなお店に当たりました。

ランチのあとで八ヶ岳倶楽部にも行きましたが、お腹いっぱいなのでお茶はせず、雑木林のお散歩のみ。ぐっすり寝ていたシューさんを起こして連れてきたので、このボッサボサ頭。

別犬種みたい


空庵に着いて荷物を降ろして、日が暮れてから温泉へ。初めて夜になってから出かけてみましたが、街灯もなく、ほんものの暗闇です。そして闇とともにある静寂が贅沢というほどにすばらしいのです。

初めてのゲストは、まだ片付いていない空庵を居心地がよいとたいへん気に入ってくれました。とりあえず合格をもらったようで、ひと安心です。環境も気に入ったらしく、東京に帰ってきてからしきりに「山がない!」と嘆いていました。

翌日は午前中に出発して、道の駅で買い物。そのあと、サントリーの白州蒸留所に行ってみましたが、予約がないと入れないということで、代わりに台ヶ原宿にある「七賢」の蔵元をチラ見(犬連れのため)。

このくす玉よ


見どころスポットでもそれほど人が多くないのがまた好ましく、私にとってはちょうどよい田舎加減です。この地がよくて移住を決めたわけではないのに、結果はオーライでした。これまでCHAZENをどうするかに頭を悩ませてばかりだったのが、ようやく新しい生活のほうに目を向けられたのを実感しました。希望の光が見えたような......。

これは始まりです。
終わると思うと寂しいばかりですが、新たなCHAZENに向けてのスタートだと思うと元気が出てきます。

あと2週間となったこれまでのCHAZENと同様、新しいCHAZENをどうぞよろシュー。