CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

はじめに悩みありき

アシュタンガのおもしろさは比較的簡単に伝わりますが、インド思想のおもしろさに共感する人の割合はガクッと下がります。それだけに、共有できたときは通じた喜びもひとしおです。

趣味の領域でおもしろいことは単に好みの問題なので、興味のない人に語ったり勧めたりすることはしない私ですが、ヨガや禅のおもしろさは余計なお世話と言われても人に伝えたくなります。新橋で飲んでいるおじさんのように何度も同じことを述べまくっています。先日、その毎度おなじみのセリフを述べたあとに、ふと疑問が湧いてきたのでした。

それは「世の中には悩みに対するいろんなソリューションがあって、ヒントになるような本はたくさん出版されているけれど、それでは解決できない。インド思想で価値観や常識、当たり前が覆されないと、問題は本質的には片づかない」といういつものアレです。そう力強く言ったあと、「はたしてここにいる参加者はそんな悩みを持っているのか?」 と思ったのです。

ヨガ以前の私は、いつも終わりのない、得体の知れない思考の堂々巡りを続けていました。ある種の生きづらさみたいなものを常に抱えていながらも、若い時からあれやこれやの自己暗示的なコントロール方法や、仕事などに打ち込むことで、わりと普通に社会に適応して生きてきたのですが、気づけばまた同じ悩みに戻ってしまっていました。

それは、その時々の境遇や状況の悩みであるように見えましたが、結局は自分という存在に関する根源的な悩みだったのだと思います。だから、どんな方法で乗り切ったとしても、それは小手先の、その場しのぎの解決法でしかなかったのです。その後ヨガを始めて、徐々にインド思想がわかってきたとき(出会ったときではなく)「これで救われた」という感覚がありました。これを頼りに歩いていけば大丈夫。もうこの先あの堂々巡りはなくなるのだと確信したのです。

でも、それは私だけの問題だったのかもしれません。もっとも座学中にそれぞれの抱えている問題についてのディープな話はしませんから、同じようなことを考えている人もいるかもしれません。ただ、印象としてはそういう「どこまで剥いても芯が出てこない」ような、そういう類の悩みとは違うのかなと思ったのです。やっぱり独り相撲だったかと、夕日を背にして、長く伸びた自分の影を見つめながら歩く新橋のおじさんでした。

ところが、最近たまたま読んだり聞いたりしたのですが、禅の老師たちが出家したきっかけには、自己の存在に関する「どこまで剥いても芯が出てこない」タイプの悩みがあったということに気づいたのです。そりゃそうです。何も悩まず、困っていなかったら、好き好んで厳しい修行道場に入ったりしませんからね。さらに言えば、古のインドの哲人たちも、お釈迦様も悩みが尽きなかったがゆえにソリューションを考え続けたわけです。そして画期的な方法を見つけた。すべては「はじめに悩みありき」です。

一方、ヨガをはじめるきっかけは、ほとんどがもっとずっと軽いものです。私自身ヨガを始めたのはスポーツクラブであり、その根源的な悩みの解決など一切期待していませんでした。そう考えると新橋のおじさんも納得です。悩みがなければ、あるいは軽いものであれば、修行の必要性も感じないかもしれません。たいていの人はストレス解消くらいの気持ちでヨガを始めるものです。インド思想なんてその時点ではまったく意識しませんよね。

あえて言うなら、ヨガを始めて、インド思想を学ぶことで、そういう根源的な悩みに気づくものかもしれません。今まで単なる一時的な悩みだと思っていたことは、実は自己存在に関する大きな誤認識だったということに気づいてから、ほんとうの問題の所在がわかるという。私も最初にその悩みの根本がわかっていたら、もっと早く仏教に出会っていたのかなという気がします。

そして、なぜ今までの方法では根本的な解決にならなかったのか、なぜ仏教やヨガ思想なら解決になるのか、今なら言葉にできるような気がしてきました。先日書いたように今は私的な夏安居なので、それについてもまた改めて書いてみたいと思います。


新橋のおっさんと言えば......

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自分の練習中目に入ってしまった、酔いつぶれて玄関先で寝てるおっさん......