CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

茶禅会とそうめんパーティ

本日は茶禅会でした。この会では、坐禅して、正法眼蔵随聞記を読み所感を述べてもらうのですが、みなさんのコメントは至極まっとう。ひねくれたコメントもないし、自説を延々述べまくったり、理屈をぐりぐりこねくり回すような人もいない。「上澄み」な人たちが集う、清く平和なCHAZENです。一人だけへんなことを言う人がいるのですが、それが私です。あくまで私見としながらも、それらのまっとうな感想に対して、常識外(非常識とも言う)の見解をどんどん当てていきます。

ところが、その常識から外れた見方が私のパターンになっているのではないかと、最近やや気になるのです。「禅ではこんな風に考えるんですよ」ということを伝えたいあまり「常識はずれの常識」みたいなものをつくりあげているのではないかと。

これはよろしくない。わかったような気になっている人というのが、いちばん禅的ではない。方程式みたいなものを作り上げたとたん、それは禅らしからぬものになる。もしそれで正解を得たような気になったら、ばっかもーん!出直してこい!と言われるのが禅です(という決めつけも禅らしくないのか)。

そういう人に喝を入れてくれるような老師がいたらいいなあ、コテンパンに怒られてみたい、とか妄想したりして。意見を請われたら、頭に草履をのせて出て行ってしまうような人がいないかなあ、なんてさらに妄想が膨らんだり。同好会、サークルレベルなのに、何を妄想しているんでしょうね。

さて、例年参加者が少ないお盆時期の茶禅会ですが、きょうはたくさん。もはや半分天龍寺の人となっている某嬢が久しぶりに来てくれるということで、終了後そうめんパーティをしました。私の中では、そうめんは天龍寺の薬石(簡易式の作法でいただく夕食)のイメージなのです。流れてきたらもっと楽しかったと思いますが、ごく普通にそうめんをいただきました。でも、みんなで食べるとおいしい。坐禅もヨガも、みんなと一緒だとベツモノになりますね。

星覚さんもようやく次の帰国を検討する準備ができたようで、来年は坐禅会やワークショップ、そして禅の旅も再開できそうな気配が濃厚になりました。私の中でも、ヨガ哲学を学ぶほどに禅への意欲が高まってきており、私的夏安居がますます楽しい葉月です。


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そうめんを写し忘れて夢の跡......