人間の欲について考える日常を送っていると、欲も実にさまざまあることがわかる。
かつての自分は、常に「ひとかどの人間」になろうとしていた。それは多くの人が持っているであろうごく普通の、人間としての中身を充実させたいという欲望であり、それを向上心と言うのであろうけれど、今の私からするとそんなものは「フッ」と鼻で笑ってしまうくらい、つまらないもののように思える。
確か小一のとき、毎晩寝る前に母がヘレン・ケラーの伝記を読んでくれたことがあり、子どもなりに感動して、大きくなったらりっぱな人になりたいと思った。そういう経験は大切なのだけど、問題は純粋にそう思った気持ちがだんだん汚されてしまうことだ。世間に揉まれているうちに、その向上心はヨコシマな性質を帯びていき、気づけばつまらないものに成り代わっていたりする。
りっぱな行いを目指すことは悪くないけれど、それを人に認めてもらいたいと思うようになる。意識はしてなくても、そういう行いが「評価」されることをどこかで期待するようになる。いいことをしたら、他人から「いいことをする人」として見られることを無意識に期待している。
粗い物欲や名誉欲などがなくなってきたあとに、自分のちょっとした行動に「**と思われたい自分」がひそんでいるとわかり、大きな欲があるときは気づかなかったことがいろいろ見えてきた。
その微細な潜在意識に気づくようになってから、あるいは以前書いたような「私」という意識が薄れてから、自然にそういう欲もなくなっていったように思う。
さて、そうすると今度は別の欲望に気づくようになる。
人をよい方向へ導きたいという欲だ。それがどんなにウザいものであるかは、たいていの人が親に感じたことがあるからすぐわかると思う。とはいえ、私の仕事は「人をよい方向へ導くこと」なのでビミョーだ。
最近、これに対する答えがふっと降りてきた。
私が意図的に導かなくても、先人の教えを伝えていれば自ずとよい方向へ向かうのである。私がすべきことは、自分のプラクティスだけ。ヨガと禅と用務員作務!
って、あったりめえよ。何を今さら言うか。
そう、欲望というものは、すでに自分の中にあることに気づかず、常に外側に何かを求めて翻弄されているということでもある。
この、ひとつクリアすると次のステージが現れるというのがおもしろくて、死ぬまで人生楽しめそう。
次はどんな欲に気づくのかな。
ちなみに、食欲と睡眠欲はクリアしたいと思っていません(今のところ)。