ヨガスタジオで教えていたころ、ちゃみさんのサンスクリットカウントが好きと言ってくださる人が多かったのだけど、それはある一定のリズムの中で動き続ける心地よさによるものだと思っている。
初めて行ったマイソールから帰国直後に担当することになったハーフプライマリーのクラスでは、インドのシャーラーと同じサンスクリットのカウントで(一部英語を日本語にして)やろうと心に決めていた。最初の「サマスティティヒ」からノンストップで75分。真剣に、無になってカラダを動かし続けて、瞑想状態になれたのだろうね。
最近、私の腕もだいぶ力が入るようになり、練習中に、よどみなく流れるようなアシュタンガのリズムの心地よさを思い出したりしている。ちらっとバッハが鳴ったりして。
これは個人的な感覚なのだけれど、一定のリズムで呼吸してカラダを動かしていると、アシュタンガは音楽そのものに感じられる。呼吸の音が楽器になり、極上の瞑想的な音楽を奏でているような至福に包まれる。
私にとって、アシュタンガヨガのポーズの上達とは、上手に演奏をするということと同義かもしれない。呼吸がスムーズでないと、それは不協和音となって瞑想を妨げるし、ポーズ自体がうまくとれないと、音程をはずしたように流れが中断するからだ。
そこに至るまでには努力と時間が必要なので、何年やっても飽きないのかもしれない。
などと、難しいポーズの探求を放棄(あるいは中断)してから、おそらくそれが本来のアシュタンガヨガのエッセンスではないかと思うものを、理論や誰かの受け売りではなくカラダで感じている。
ところで矛盾しているようであるが、私はふだんできるだけ音楽を聴かないようにしている。聴き始めるとズブズブとのめり込んで狂ってしまうからである。ロック、ジャズ、ソウルなど聴いていると、ある意味恋愛的な多幸感が得られるので、つい惑溺してしまう。好きな音楽は、私にとって麻薬のようなもの。アル中にとってのお酒、多くの女子にとってのスイーツみたいなものである。
ここがすごくビミョーなのだけど、瞑想的な音楽はそういう好きな音楽がもたらすものとは異なる。多幸感ではなくて、もっと静かで穏やかで、自分の内側でじんわりと生まれる満ち足りた感覚。トランスではなく、しっかりと覚醒していて、謙虚になり、かつ感謝の気持ちがあふれるもの。
それはもしかしたら宗教的なある境地かもしれない。胡散臭く言えば、神を見るような。
アシュタンガにたとえられる音楽を共有できる人は少ないかもしれないけれど、早朝のあの空気感とか、レッドクラスのシンクロ感とか、たぶんわかってもらえる人は存在すると思う。なにしろ、そこらのパワースポットどころじゃないほどのスピリチャルパワーですからね。