CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

坐禅と玄米にたいした違いはありません

伝えたいことがありすぎるのは、自分自身の未熟さゆえ。
自分が実践し、ただそのように生きていればおのずと伝わるはずだけれど、半人前だから言葉を使って、なんとか伝えようともがいている。

言葉に定義はあるけれども、伝わるニュアンスはひとそれぞれ。
それゆえに、伝わりづらいことが伝わったときに喜びを感じるし、ほんの少しの言葉で人と何かを共有できたときのうれしさは格別だ。

そもそも、伝えたい内容自体が言葉では言い表せないものなのだから、言葉で伝えようとするのが間違いである。

禅の世界では不立文字(ふりゅうもんじ)と言って、頭でっかちの知識を斬る。
ただただ坐る、ただただお経を唱える、ただただ掃除をする、ただただごはんを食べる......それを集団生活の中で実践して身体に染み込ませる。そこから言葉(思考)を介さずに何かを学んでいく。

その、染み込んだものが少しでもあると、言葉はその効力を発揮するのかもしれない。まったく何も知らない人に通じない言葉も、ある程度のプラクティスをして、なんらかの体験を経た人には、時に稲妻のような光と衝撃をもって響く。

最近自分のなかで感じているナニカを言語化してみたくて、ふっと鈴木俊隆老師の『禅マインド ビギナーズ・マインド2』をパっと開いたら、"玄米がちょうどいい Brown rice is just right "のページが出てきた。「玄米とはタイミングよすぎ」と思いながら読んだら、しょっぱながこれ。

あなたたちは坐禅を気に入っていますか? いや、それより玄米を気に入っていますか? と聞いた方がいいかもしれません。坐禅は話のテーマとしては大きすぎますから。玄米くらいがちょうどいいでしょう。実際、坐禅と玄米にたいした違いはありません。

『禅マインド ビギナーズ・マインド2』サンガ新書より

今日の私には、これがいちばんのクスリ。


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昨年の「禅の旅」における玄米