ヨガというのはただのいのちとなって「今ここ」に存在するプラクティス。
ですが、ま、私自身がなっとらんことを痛感した出来事がありました。
今日のギータークラスで輪読の際、「落着き」を「らくがき」と読んだ人がいて、一瞬納得したあとに「ん?」......、のち爆笑。これねえ、昨年も同じ間違いをした方がいたように記憶するのですよ。送り仮名がよくない。「落ち着き」とすべきでしょうね。だから、笑うようなことでもないのですが、ここは「神的」な性質について述べている箇所なので、字面は似ていてもえらい違いなわけです。で、例によってちゃみこさんの笑いの琴線に触れてしまいまして......。
笑いが収まって輪読が続いているというのに私のチッタは「神的ならくがき」を想像してしまうわけですよ。さらには某嬢が以前お菓子の袋を見て「小豆」と書いてあるのを「こまめ」と読んだときの、まじめな顔まで思い出してしまうわけですよ。禁じれば禁ずるほどにね。で笑い止まらず。
「今ここ」から遠く離れて「どこよ、そこ?」
私の場合、楽しいことが執着になりやすいので要注意。そういう人はへらへら笑っている間に足元すくわれて転ぶことが多いです。
さて、今期のギータークラスも来月が最終回。
前回も書きましたが、みなさん目覚めつつあるという感じで発酵しております。
座学は冬のほうがしっくりくるような気がします。晴耕雨読ではないけれど、農閑期こそスヴァーディヤーヤに励む時。そして、新年というのはやる気が湧いてくる絶好の時。来年はギータークラスのスタートを1月にしてみようなどと、鬼に笑われそうな企みをしております。
個人的にも今年は仏教の学びを深める年と決めて、この半月で盛り上がっています(これも楽しさの執着の種になりそう)。そして第二次禅ブームがやってきております。何にもわからないまま永平寺に行きハートを射抜かれてから、ずっとブームは続いていたのですが、若干フェーズが変わったというか、時が満ちてきた気がするのです。
このブームは、ヨーガ・スートラの影響によるものでもあります。日本のサンスクリット語の学者先生方というのは、みな仏教思想を学んでいてそっちがメインなのですね。インド人の先生について学んだらおそらく出てこないような仏教の話が解説の引き合いに出されることがよくあります。特に禅定というくらいなので禅に結びつく。ヨーガ・スートラを突き詰めていけば、やはり仏教につながり、禅につながっていきます。
そして、クリシュナもパタンジャリもすばらしいと思うけれど、インド人でない私にはやはりお釈迦様の教えがいちばんしっくりきます。そのお釈迦様は坐してお悟りを開かれたわけです。『坐ればわかる』という本もありますが、「坐らないとわからない」のですね。それで発酵し、熟してきたアシュタンギのみなさまにはぜひ坐禅をおすすめしたいと思っています。
そうは言っても、坐るというのはヨガよりずっとハードルが高いと感じるひとが多いでしょう。坐ること自体は簡単でも続けることが難しいからです。ところが、禅は坐禅だけではありません。特に永平寺を開いた道元禅師は、日常瑣末の行いすべてが修行であることを説きました。行住座臥すべて、つまり1日24時間すべてがプラクティスタイムである道元禅師の教えは、オフザマットの行としてどなたにも実践できるすぐれた修行方法です。2019年という年を大切に生きるためにも、ぜひ取り入れてみてはいかがでしょう。
来週の禅ワークショップでは、禅寺の生活作法から日常生活すべてを修行として楽しめるようになるヒントが得られます。かるた遊びを通じて楽しく学びます。残席1名ですのでお早めにどうぞ。