CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

本来無一物

過日、星覚さんの書いた「本来無一物」のカードを一日一語として出しておいたら、CHAZEN生たちから「なんと読むのか?」「どういう意味か?」と質問された。おっと、こいつはうっかりした。

読み方は<ほんらいむいちもつ>、意味は、CHAZENに貼っておいたカードの裏に星覚さんが英語で書いておいてくれたけど、ごめん、見えなかったね。

Everything is essentially nothing.

英語にするとわかりやすい。

禅の歴史については断片的に得られた知識しか持ち合わせていないが、その中で私の印象に強く残っているのが禅宗の第六祖(菩提達磨禅師を始祖とするとで、お釈迦さまから数えると三十三祖)である大鑑慧能禅師の伝記。読み書きができず、寺の米つき人でありながら第五祖の大満弘忍禅師から衣を伝えられた(後継者として指名された)ドラマチックな話なのだ。そして、そのエピソード中に出てくるのがこの禅語。

ということで、昨日の茶禅会で話した内容を、以前總持寺の摂心に参加した際、提唱(講義)として聴いた禅の歴代祖師の伝記「伝光録」をもとにかいつまんで記してみます。資料は口語訳なしの原文なので、ちょっとあやしい私のテキトー解釈であることをお断りしておきます。また、人名がややこしくなるのを避け、出家前の名前は出さず、大鑑慧能禅師のことを<六祖>、大満弘忍禅師を<五祖>で統一してあります。ちなみに舞台は7世紀の中国で、登場人物もみな中国の人。


六祖は小さい頃に父親を亡くし、母を養うために薪を集めては売って糊口をしのいでいた。ある日薪を背負って町に行ったら、金剛経を読む客がいて、その「応無所住而生其心」という経文にビビビッときて仏の道を目指すようになる。「応無所住而生其心」というのは「いかなる処にも執着することなく、自由自在な心の働きをすること」。読み書きができなかったのにすべて理解している天才だったんですね。

やがて、かくかくしかじかで五祖に弟子入りすべくやってきて問答をしたが、毛色の異なる人物であるため、修行僧ではなく米つき小屋へ行かされる。そこで日夜米つきに精を出す毎日を送り、8カ月たったあるとき、後継者を選ぶ時期がきたのをさとった五祖が、弟子たちに偈(詩)を述べさせて、これはと思う者に衣法を嗣ぐと伝えた。そこで、700人以上もいた修行僧のトップであった神秀が以下のような偈をつくった。

身は是れ菩提樹
心は明鏡台の如し
時時に勤めて払拭せよ
塵埃を惹かしむること勿れ

<テキトー意味>
この身は仏様の宿る菩提樹であり
心は本来鏡のようにきれいなものである
常にこれらを怠ることなく磨いて修行し
汚れをつけることがあってはならない


いかにも優等生らしい偈に五祖は讃嘆し、修行僧たちは神秀が後継者であろうと噂した。いまだ文字の読めない六祖は、その偈のことを聞いて、上手なことは上手だがわかっておらんと評する。そして、小僧さんに頼んで自分のつくった偈を書き写してもらい、夜中に神秀の偈の横にこっそり貼っておいた。

菩提本樹に非ず
明鏡亦た台に非ず
本来無一物、
いずれの処にか塵埃を惹かん

<テキトー意味>
仏様の宿るという木(身体)はないし
ピカピカの鏡のような台(心)もない
この身体も心も実体はない(空である)
どこに汚れがつくというのか


さて、これを見て「これぞまさに生きた菩薩様の偈だ」と寺は大騒ぎになった。その偈が六祖によるものだとわかった五祖は「こんな偈をつくるのは見性していない者だ」と騒ぎをかき消した。

おそらく、慧能禅師の才を最初から見抜いていた五祖は、後継者を目指す他の修行僧たちの反感を危惧して米つき小屋に住まわせたんでしょうねえ。そして、米つき男が後継者に指名されると知ったら、争いごとが起こるであろうことを承知していたんでしょうねえ。

五祖は夜になってからこっそりと米つき小屋に行って六祖に衣鉢を渡し、命の危険が迫っているから、ここから逃げてしばらく身を隠していなさいと送り出し、自ら竿をとって向こう岸に渡した。

しばらくして、衣が六祖に伝わったことを知って追ってきた慧明が六祖に追いついた。六祖が石の上に衣鉢を置いて隠れていたところ、慧明がそれを上げようとしたがなんとしても上がらず、おののいて身を引く。

雌伏の十年がすぎたのち、六祖は印宗法師の涅槃経を講ずる会に赴いた。そこにいた二人の僧が暴風で幡がはためいているのを見て、幡が動いているか風が動いているかで議論をしていた。六祖は、動いているのは風でも幡でもなく君たちの心だよと言ってのける。これは只者ではないと知った印宗法師により、晴れて六祖は出家剃髪し、禅宗第六祖となったのであった。


どのくらい盛ってある話なのかわからないけれど、昔むかしのレジェンドにワクワクしながら拝聴していた私。總持寺の若い修行僧たちは7割方居眠りしてたけどね。

なんといっても慧能禅師が読み書きできない米つき人ってところがいい。学問ができないのに、仏の教えのなんたるかがビビビッとわかってしまうという。おそらく禅はそういうことなのではないかと思うのです。ヨガも同じだけれど、頭で考えて理屈で納得するのではなく、ビビビッ。なんだかわからないけど「これは!」というものを感じるのが、ソレなのでしょう。知識ではないのです。決まった答えなどないのです。

だから、「うるさい やってみろ」なのです。


f:id:chazenyoga:20190202165628j:plain
こちらはホンモノの掲示板@ベルリンの道場