本日の一日一語。
昨日この言葉に行き当たったとき、背中を打擲された気がした。まるで不意打ちの警策のようにズシンと響いた(不意打ちの警策はありませんが)。自分の慢心を思うと、穴があったら入りたい気分だった。しかし過去を思っても仕方ない。そんなことではさらに禅から遠くなる。墨をすって、澤木老師の言葉を書きまくって、坐った。
さっそく今朝これを掲示しておいたら、禅マインドの旺盛なCHAZENのお嬢さん方にも響いたらしい。このツーカーさがたまらん。この卑俗な表現がなおさら単刀直入に腹に落ちるのだろう。長い文言の日もあるけれど、このくらい短い方がよりインパクトが強いので、一部を抜き出すことにした。参考までに、省略した部分は以下のとおり。
引用元:『生きる力としてのzen』大法輪閣
私はこの歳になっても坐禅はいつでも初心である。坐禅に慣れてしまったらそれはウソの坐禅になってしまう。慣れた坐禅はクソの役にも立たん。いつでも真新しの坐禅をしなければならぬ。だから初発心のときが一番よい。慣れっこになったのを熟練したと思ってはならぬ。
このビギナーズマインドを重要事とするメンタリティというのは、やはり日本人ならではのような気がする。禅はお釈迦様の教えが中国を経て日本に伝わったわけだけど、こういうところは日本らしい禅文化の表れなのではないか。よくはわからないけれども、私の知る限りではインドでも欧米でも聞いたことがない。
このメンタリティがある限り、偉くなってもたとえ悟っても堕落せずに精進し続けられるのではないか。ヨガの経典にこういうことが強調されていたなら、ヨガグルがスキャンダルにまみれるということもないのではないか。
などと考えたところで、禅とヨガの決定的な違いは「テクニック」の有無にあることに気づいた。
道元禅師は言われている。
坐禅は習禅にあらず
すなわち、坐禅は上達を目指して練習するようなものではないということだ。
一方、ヨガはヤマ、ニヤマの先アーサナからはテクニックの習熟こそがマスターへの道である。秘術を使って不老不死を目指すとか、超能力を発現させるとか、ハタヨガは本来そういうものである。
ただし、グルジ のアシュタンガヨガは一般の人がより健康に、より幸福になるためのものなので、そういうマニアックなところはない。だからアシュタンガをやっていても空中浮遊のテクニックはマスターできない。悪いがほかをあたってくれ。
アシュタンガはヨガであって禅ではないけれど、ヨガのなかでは禅に近いかもしれない。呼吸やバンダを使って体を操作していくことに習熟するものではあるけれど、ポーズが上手になってもそれが即サマーディ(三昧)に至る道ではないという意味においては、アシュタンガもまた「習禅にはあらず」ではないかと思えてきた。
アシュタンガの最も優れているところは、ふにゃふにゃの現代人のカラダとココロを土台からしっかり建て直していくシステムであるということ。そうしてできた堅固なベースに、ビギナーズマインドの禅を乗せたら、富士山のような美しい不動の山になるのではないか、というのが私の目論みである。
うるさい、坐れ!
はい。