CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

おへチャは、おへチャで、おへチャ仏

今月3回目の平日茶禅会、茶禅会としては今月4回でお寺さん並みの頻度です。お布施としたことで、心置きなく、じゃんじゃかやれます。金銭的な利益がなく、義務も義理もない布施行だと思うと、こんなにも明朗な気持ちでできるんですね。私自身の修行ですから、誰が来ても、誰も来なくてもいいわけです。そう思っていても、実際には禅マインドのわかる方が参加してくれて、安らいだ、よき時間がすごせるというおまけまでついてきます。

本日は私からのお布施として、永平寺道元禅師について、そして道元禅師の書かれた『普勧坐禅儀』より、坐禅はなにをするものかということについてお話させていただきました。布施行ですから、まさに「させていただく」のです。

たとえば、ギーターやヨーガ・スートラのクラスでは受講料をいただいているので、プロとしてそれに見合うようなものを提供しなければいけない。そうすると、この説明で理解してもらえただろうか、興味をもってもらえただろうか、ヨガがますます好きになっただろうか......と反応が気になるものです。それを見て、もっとこうしようああしようと反省して次に向けて取り組む。

ところが、それが布施行であると気が楽なのですね。自分の知っていることを「ちょっと聞いてみて」ぐらいな気持ちで話すと、なぜか通りがいいような気がします。聞いてくれる方たちが禅マインドを持ち合わせているからでしょうが、わからせようとがんばらないので、伝えることがシンプルになるのかもしれません。これは新たな発見です。

そうして参加者からも話していただくので、シンプルな話が幾重にも折り重なって、実は濃厚な時間になるというすごい効果を発揮しているような気がします。某嬢は「楽しかったー。たくさんいい話を聞いたので、途中で落とさないように帰ろう」と言ってました。

「立派な何者かにならなくてもいい、そのままで、自分のままで坐禅をする」というようなことも話したのですが、上記の例で言えば、座学クラスのちゃみさんは「ちゃんとした先生としてヨガ哲学のことを話さなければ」という気持ちが強いのかもしれません。それ自体は当然だし問題ないのですが、その先に「理解してもらわねば」というのがくっつくとグチャグチャしてくるのかもしれません。あるいは「いい先生」になろうとすると、評価が気になるのかもしれません。

澤木老師の話にはよく「おへチャ」が出てきます。ブサイクということでしょうが、ヘチャっとつぶれている顔とは、まさにこの私、ヘチャミではないですか。中でもこの言葉が好きです。

おへチャは、おへチャで、おへチャ仏
美人は、美人で、美人仏
あれもよし、これもよし


そうです、ヘチャミはヘチャミのまま仏になればいいものを、美人仏を目指してしまってたんですね。この場合の美人というのは理想の自分のことです。そうして、美人仏になれないと劣等感を抱いたり、なんで私は......と悩んだりという愚をおかして生きてきたのです。このへんのニュアンスはとても微妙なのですが、禅がわかってくると過去の自分のモヤモヤがちゃんちゃらへちゃみおかしくてたまりません。


3月はウィークデイ茶禅会も日曜日の茶禅会も2回ずつの予定です。
おへチャなあなたも、美人のあなたも、そのままで仏になりましょう。

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