ヨガは宗教か
「体を動かしたいだけならホットヨガのほうが安くていいぞ」
ちょっと前、一日一語の掲示板にそう書いておいた。
これけっこう本気でそう思っている。というのも、フィットネス的なヨガをしたい人に、決して安くはない月謝をいただくのは申し訳ない気がするのだ。フィットネス的なヨガも現代人の健康のために大いに貢献しているわけだし、精神論的なことなんか言われたくないって人には断然いいと思う。
CHAZENのヨガは宗教です。
と明記しておいたほうがいいのかもしれないな。ウェブサイトに「アシュタンガヨガ禅仏教道場CHAZEN」とでも書いておくか......。
それはさておき。
「宗教」って言葉が日常でよく使われるのは、「新興宗教」とか「カルト宗教」的なニュアンスであることが多いような気がするのだけれど、そうではないよね。宗教の定義が何であるかを考えるとヨガもまた宗教なのではないかと思えてくる。ちなみにコトバンクには、このような記述があった。
しゅう‐きょう ‥ケウ【宗教】
② (religion の訳語) 人間生活の究極的な意味をあきらかにし、かつ人間の問題を究極的に解決しうると信じられた営みや体制を総称する文化現象をいい、その営みとの関連において、神観念や聖性を伴う場合が多い。
※航魯紀行(1866)〈森有礼〉八月二四日「此国二者種々の宗教あり」
出典:精選版 日本国語大辞典
ヨガはまさにこのような営みであり、そこに神観念や聖性を伴うのだから、りっぱに宗教と言えるのではないか。
ヨガが宗教かどうかというテーマについては以前からよく考えていたのだけれど、佐保田先生は宗教と言い切っておられる。
(以下引用元はすべて佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』平河出版社刊)
ヨーガは世界の大宗教のどれに比べても劣らない宗教です。しかも、どの宗教にも無い長所をもっております。その一つはヨーガには肉体的操練の方法さえそなわっているということです。幾百といわれる体操、幾十といわれる呼吸法をそなえた宗教はヨーガ以外にありましょうか? 人々はこのことを誤解して、ヨーガは健康法か美容術だと思いこんでしまいます。しかし、体操や呼吸法はヨーガの最高目的に向って旅立つものにとっては、最初の足ならしの段階でしかありません。もちろんヨーガの体操や呼吸法によって、肉体的並びに精神的に驚くべき大きな効果をおさめ得ることは事実です。しかし、ヨーガの道からいえば、これらの効果は予備段階にすぎないのです。
いや、まったくもってその通り。「ヨーガには肉体的操練の方法さえそなわっている」のです。一般世間では「ヨーガには精神的な効果もある」と思われているけれど、それ逆ですから。健康法的なヨガは足慣らしにすぎないわけです。しかし、健康法と思われているがゆえに気軽に始めることができる。いきなり**教に入門するのは日本人にとってはハードル高すぎるけれど、ヨガなら信仰がなくても、続けることができるか自信がなくても簡単に始められる。それでいて、肉体的な健康や精神的な成長さえも予備的な段階にすぎないほどのパワーを秘めている。
ヨーガはドグマや信条を押しつけません。これこれのことを無条件に受け入れなければ門に入ることさえ許されないということはないのです。ヨーガは次のようにあなたをさとすでしょう。“体操から始めてこれこれのことをおやんなさい。そうすればあなたは自然に、ヨーガで説くような宗教的理念を納得するようになりましょう。自分を含めてすべての生物のなかに神がおられるという真理は、無理に肯定したり、信じこんだりする必要はありません。そんなことをすれば偽善者になるだけです。とにかく気長にヨーガをやってごらんなさい。そうすれば、そういうことをすなおに受け入れられる気持ちになり、やがてこの真理の認知はそう遠くないという信念をいだき、しまいには、はっきりとこの真理を直観するに至るでしょう。そうなっていくにつれて、あなたは心のうちに霊性の太陽が段々に高くのぼり、限りない幸福感と充実感を覚えるようになりましょう。
さすが自らがヨガの実践をされていた佐保田先生だけに実感が込められている。学者の先生方では決してこうは言えない。学識と実践両方に長けていないとここまでは言い切れない。
確かにヨガのアーサナ実践(アシュタンガの朝練)をするのに信仰は必要ない。ただ教わったとおりに呼吸をして身体を動かしていればよい。そうすれば自然に「霊性の太陽が段々に高くのぼる」。
坐禅を始めるにもまた信仰は必要ない。ただ教わったとおりに坐ればよい。ま、こちらは「やっても何にもならん」ということになっているのだけど、実際には自然に「霊性の太陽が段々に高くのぼる」と思う。
坐禅は宗教でヨガは宗教でないのか?
まあヨガが宗教であってもなくてもぜんぜん構わないのだけれど、「ヨガは宗教でない」と強調するのは、ヨガが「決してあやしいものではございません」というときの方便なのだろうね。
ところで、坐禅はただ坐っているようだけれど、実は身体で実践する。まずは肉体で仏のかたちをつくるところから始める。けれども、もしほんとうにただ坐禅のかたちだけを真似して、頭では考え事にふけっていたり、寝ていたら、それはまったく坐禅ではなくなる。
同様に、ヨガのスピリチュアリティをまったく無視して、ただかたちだけのアーサナを実践していたり、精神面の指導がなされずにエクササイズとしてだけ実践していたら、いくらやっても霊性の太陽はのぼらないのではないかと思う。そんなわけで、わざわざ「宗教です」とか言ってみたくもなるのである。
「アシュタンガヨガ禅仏教」は、いずれにしてもまずは身体をつくることから始める。しっかりした土台さえできれば、心はそこに安心して乗っかることができる。佐保田先生のいうとおり、こんないい宗教はないかもね。思わず勧誘したくなるもの。
こんなすがすがしい朝の宗教だったら、やってみたいと思いませんか?