CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

いきる歓び

ヨーガ・スートラクラスは、第二章の終盤に差し掛かり、ここからはレクチャーだけでなく実践の時間をもうけることにした。今日はアシュターンガ(八支則)のプラーナーヤーマについて、ヨーガ・スートラに書かれていることを解説したあと、アシュタンガプラクティス(朝練)における呼吸について重要なポイントを確認し、いくつか呼吸の実践を行った。

そのポイントとは、音を出す(自分で聞く)こと、ゆったりと吸って吐くこと、吸う息と吐く息の長さや質などを均等にすること。しかし、これ「言うは易く行うは難し」なのである。なぜなら多くの人がポーズにばかり目を向けて呼吸がおろそかになっているものだし、たとえ意識していても、ポーズに習熟していないと均等に呼吸することは難しい。

この(適度に)長くて均等な呼吸をマスターすると、アシュタンガヨガの練習は今よりももっと心地よいものになる。朝練のときの呼吸を、座って実践してみてもらったところ、みなさん気持ちよく(眠く?)なったようだが、それがアシュタンガヨガの気持ちよさなのだ。

私自身、肩が動かなかった3年間は呼吸だけで練習していたようなものだけど、呼吸により重点が置かれたことで、アシュタンガヨガがいかに優れているかまたまた気づいてしまったのであった。

規則的な呼吸ができるとアーサナにリズムができる。呼吸がスムーズであればあるほどアーサナはよどみなく流れ、私の感覚でいうところの「バッハが鳴る」状態になる。その心地よさというものは、何かが得られてうれしいとか幸せというものとはちょっと違うような気がする。それを今日のクラスでは「シャバのよろこびとは違うよろこび」という(わかりにくい)表現で伝えたのだけれど、クラスが終わってから、それこそが「生きる歓び」なのではないかと思ったのだった。

「生きる」ということは「息をする」ということ?
息が心地よくなると、生きるのが心地よいでしょ? 風邪引いて息が苦しいときはほんとにつらいもの。息がスムーズになるということは、他に何もなくてもいい。この命を生きていることだけで満足している状態なのだと思う。そしてそれが私の言う「ただのいのちになる」ということにも通じるのではないか。

息が一定のリズムで長く淀みなく流れる時、そこには好きや嫌い、良い悪いという観念は存在せず、ただ命そのものになっているのだと思う。何がなくても幸せであるという、究極の満足した状態なのだと思う。それこそがヨガ。

私がアシュタンガヨガの練習に見出す歓びというものはそれだったのだなと今さらながら気づいた。
それが昂じていくと、ある種の「神を見る」ような状態が生まれる。

生きる歓びとはすなわち、息をする歓びであったのか。

生きていると数々の困難や試練に出合うものだし、毎日の生活はストレスにさらされているけれど、毎朝ただのいのちに還ることで「なんでもない幸せ」がカラダに刻まれていく。その積み重ねなんだろうな。アシュタンガの練習を続けている人は、たとえ自覚していなくとも、その歓びがわかっているのかもしれない。アシュタンガとはただの生きる歓びなんだよ。

やっぱり、誰がなんと言おうとアシュタンガはすごい。


閑話休題
先日誕生日を迎えたワタクシにケーキが届いたので、お茶の時間に10月生まれ3人の誕生会をした。

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ローソク消したあと


数が足りなくなったので、私はみんなから一口ずつ恵んでもらうという一番得する人になったのだが、その後超サプライズのビックリな出来事があり、感激でケーキどころではなくなった。「生きる歓び」だけでなく「生きていてよかった喜び」まで味わった本日であった。あまりに盛りだくさんなのでそれについてはまた明日。