CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

人間関係に悩んだら

よく言っているのだけど、CHAZENに来る人は社会の上澄みだなあと思うわけ。
なんとかしてこの人の力になってあげたいと思う人ほど、来てもらえないのね。そこに無力な自分を感じていたのだけど、最近は私のミッションはきっと上澄みの人たちが沈殿しないための、あるいはもっと透明になるためのお手伝いなのだと思っている。

上澄みの人たちであっても、ほとんどは対人関係にモヤモヤした思いを抱いているし、時に気分がどんよりしたり、自己否定にとらわれたりするものだからね。もちろん私もいまだにそういうことはあるけれど、以前の自分に比べたら雲泥の差がある。

何が変わったのか考えてみた。
まず、加害者にも被害者にもならず、第三者的な位置から眺めるようになった。これだけで事態はかなり軽くなる。「あの人に傷つけられた」的な当事者意識がないと、冷静に事態を収拾させることができる。

そして、誰かに嫌なことを言われたりされたりしても、どちらが正しいとかどちらが悪いという判断をしなくなった。不快な気持ちが発生するのは仕方ないとして、不快であればあるほど相手には好意的な言葉や気持ちを示すようになった。それでうまくおさまることが多いけれど、それでも無視されたり、嫌なこと言ってきたりする人はいる。そのときはそういう態度の裏にはどういう心理が働いているのかを想像して、なるべくそれを理解していれば、こじれるようなことにはならない。

そして、嫌なことがあっても別の誰かに言わなくなった。
以前の私は友達や家族に嫌な出来事を話していたけど、それをする気がしなくなった。自分が間違っていないことを確かめたくて、同意を求めるように話していたのだろうけれど、間違っているかどうかではなくなったので、必要がなくなったのだろう。話すとスッキリするということもあるけど、相手のことを悪く言っても憎悪の感情が育つだけで本質的な解決にはならない。時が経って関係者から話が回ってくるころには、私の中ではすでにモヤモヤもなくなっているから、悪口言わずに済む。

とはいえ、私はまったく温厚な人柄ではない(知ってるよって今声が聞こえたぞ)。
ダメなことはダメと一刀両断、受け入れられないことはソッコー却下。自分を殺して、我慢して、みんな仲良くやりましょうね!みたいなうわべのおつき合いが超苦手だから、バッサリやられてもんどりうってる人がたくさん。嫌な奴だと思われていることでしょうが、それも大して気にならない。誤解されていたり、理解されなくてちょっとカナシイときはあるけれど、自分の中に相手を悪く思う気持ちがないから反応は気にならなくなった。


とどのつまり、対人関係のことは、相手の反応に反応しているだけという気がする。
ヨーガ・スートラクラスで課題にしているプラティヤハーラ(感覚制御)の練習と同じで、「ふーん」とやり過ごしたら別にどってことないものなの。救急車がサイレン鳴らしても「鳴ってるな。ふーん」という風に流してしまえば気にならないものを、「ああまたサイレンだ。坐禅しているのにうるさいなあ」と思えば思うほど、それは気に障るものとして育っていく。

道元禅の坐禅は「ふーん」の坐禅だと私は思っている。
サイレンが聞こえなくなるほど何かに集中するのではなく、認識しても反応しない、それにとらわれないという坐禅

こういうプラクティスを続けているうちに、同じもの、同じ現象が、自分のマインドひとつでぜんぜん別のものや現象になることがよくわかるだろう。こればかりは頭で理解しただけではうまくいかない。感情は理性だけではコントロールしがたいから。これまでの人生でこびりついた思考の習性はなかなか手強いのだ。


じゃ、人間関係に悩んだらどうすればいい?


結論:

まずは朝練!CHAZENの朝ヨガ!
そして、座学と禅のクラスで理論と実践。

CHAZEN学園でお待ちしております(ニヤリ)。


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