お山では目に見えないグルからたくさんのことを教えていただきました。
そうしたら......。
こうしようああしようという思いがどんどんなくなって、いろいろがどっちでもよくなったのでした。
もちろん投げやりな意味ではないのですが、いつもパッションで動いている私が変容して、「あれでもいい、これでもいい」というところに落ち着いたような気がします。なんというか、自分の考えている方向に人を導こうなどと思わなくていいという教えが聞こえたのです。
悩んでいる人、問題を抱えている人を見るとついなんとかしたくなるけれど「それちょっと違うよ」と。なんとかしなくても、なんとか「なる」ものなのです。なんとかして「あげたり」しなくてもいいのです。
雨上がりの早朝、ゴミステーションに行く途中カタツムリが道路の真ん中を這っていました。こんなところにいたら、車に轢かれてしまうと思ったのですが、まだこの辺の人は誰も通らないだろうとゴミを出してから戻ってくると、カタツムリはもう道路の端っこまで来てました。
どんなにゆっくりであっても、自分でちゃんと移動しているのです。なんとかしてあげたりする必要などないのです。
ヨガではよく「手放しなさい」と言うのですが、その手放しも意志をもってなにかを手放すというのとはちょっと違うような気がします。たいていの人は無意識のうちに何かにしがみついているものですから、あえてそれを手放すという作業が必要になりますが、ほんとうの手放しとは手放すこともしないように思えます。
お山にいると、すべては自然に調うことを感じます。
もっと何もしなくていいのだと思いました。
これも休暇のときによく「(生産的なことを)何もしない」とか言うのとは違って、ただ「何もしない」ということです。それが坐禅です。通常は坐禅という何か自分を向上させることを「する」と思われていますが、ほんとうは「何もしない」をするのです。
なんだか、わけわからないことを言ってるようですが、それもわからせようとしたりする必要はないのですね。
人も自然も、そのままで十分美しいのですから。