ここ数日気分はローである。
長く続く雨と暗さ、各地での大雨による被害、コロナ的世相と再びの感染拡大......という外の要因に加えて、毎年恒例「夏の病」で脳に酸素が行き渡っていない、生きている感じがしないからでもある。
こういうときに、この肉体がただの物質であるばかりでなく、心もまたその一部であることを感じる。神経伝達物質のしわざだな、と。
肉体がだるかったり気分が落ちてたりしていても、物質が勝手に出ている結果だから本体とは関係ない。ちゃみこさんのせいではないのだから、放っておけばいいのだ。そう思っていつもどおりの生活をしていると、気づいたらハナウタ歌っていたりする。
あれ?ローのはずでは? と不思議に思ったけれど、掃除や洗濯、片づけなどカラダを動かして仕事をしていると自然にセロトニンが分泌されるのかもね。
それはそうと、CHAZENでは最近アフター・プラクティスのシーケンスができている。フィニッシングも最後のリラクセーションも終えたあとに行うソレは、一般的にはぞうきんがけと言われているものである。
練習が終わったらマットを拭くとともに、感染防止策のひとつとして、自分が練習した場所をアルカリイオン水で拭いてもらうことにしている。これは最初「ざっとでいいよ」とか、最後組の人には「私がやるからいいよ」とか言っていたのだけれど、途中から、これはなかなかいい練習だからむしろ積極的にやったほうがいいと気づいた。
ひとつには道場の作法というか礼というか、自分の練習した場所を浄めてから練習を終えることには精神的な浄化の作用があること。
マイソール練習に通っていたころ、練習を終えたら道場というかスタジオ内に向かって一礼してから更衣室に行くようにしていた。誰かがやっているのを見て真似したのだけど、ただ頭を下げるだけで気持ちが締まる。これは多分に日本人的な感覚かもしれないけれど、ただそれだけのことで気持ちが変わる。それがぞうきんがけなら禅風味もたっぷりで、CHAZENらしさもたっぷりではないか。
もうひとつは、永平寺式の、膝をつかないでぞうきんがけを行うスタイルは、グラウンディングに必要な足腰の使い方のヒントになるような気がしたこと。
アシュタンガをやっている人の傾向として、しなやかで軽やかな身体や四肢をもっているけれど、アシ・コシ・ハラが使えない人が多い気がする(ヴァータ的)。逆に言うと、強い下半身をもつタイプの人はアシュタンガのポーズがとりにくいのかもしれない。
みんなテレビゲームとお勉強ばかりして育ったのかー? と与作は思う。田んぼをやってみて特にそう感じた。
大地に足を根ざすとか踏ん張るというのは、ひどく昔の身体感になってしまっているのだろう。かつて農村の女性は小柄な身体で米俵(60kg)をかついでいたそうだ。仕事をする上で自然に養われる身体感が、パソコンの前で座りっきりの現代人には失われているのは当然と言えば当然である。
今月下旬からの分校アーシュラムでは、そのあたりの身体感も存分に味わっていただこうと考えている。予定ではこの週末は分校にいるはずであったが、大雨続きで中止したので、きっと雑草が好き放題に根を下ろしていることだろう。ワークショップをやらずとも、庭作務をしながらパーシャーサナの強化とか、ヒップオープニングとか、日常における身体感覚にフォーカスしてみようと思う。
現代的、西洋的感覚から言うと「雑用」と考えられることをプラクティスに取り入れることが大事。
否、雑用こそがプラクティスなり。