CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

BeTuber的茶禅会

今度はオフラインの茶禅会でした。
平日に設定したのは、コロナで外出自粛中に突如として坐禅をやってみたくなった人の存在があったからです。以前茶禅会に誘ったら思いっきり拒否られたことがあったので、それはぜひとも開講せねばと思っていたわけです。平日ならば少人数で始められるかなと。

諸事情でちょっと時期を外してしまい、今さら少人数の意味はなかったのですが、オンライン坐禅会の余韻も残っていて、心が洗われるような好い時間となりました。

文殊菩薩さまにおいでいただいてから初の茶禅会ということで、まずはみんなで御拝を上げました。御拝というのは五体投地の礼拝のことです。

......と雲水かるた大会での御拝の写真を探したら、そこでもやっぱり只管打坐の話をしていました。ということで記事ごとどうぞ。

chazen.hatenablog.com


坐禅のあとはお茶の時間。涼やかなほおずきのゼリーとラスクの差し入れとともに。

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坐禅のあとのお茶にほっとする


4月5月と2カ月間の山籠もり生活のあと、今まで強くあった伝えようとしていることを理解してもらいたいという気持ちが薄くなりました。やる気がなくなったわけではなく、アシュタンガの指導も座学で話すことも、むしろ以前より新鮮で興味深く取り組んでいるのですが、わかってもらえたかどうかということに意識が向かなくなったのかもしれません。

そんなことはどっちだっていいのです。
というより、現にこうしてアシュタンガの練習を続け、座学や禅のクラスに参加する人たちがいるだけで十分わかってもらえているのです。

本日随聞記で読んだところに「百尺竿頭上なほ一歩を進む」という禅語が出てきたので、それを『禅マインド ビギナーズ・マインド 』に出てくる鈴木俊隆老師の話にからめてテーマにしたのですが、参加者のひとりが以前私がその禅語について話したことを覚えていてくれました。私自身はそれを忘れていたのですが、何気なく話したことでも記憶に止めてくれるひとがいるのだと思うとなおさら、自分の思うとおりに理解してもらう必要などないと気づくのでした。

そもそもが頭で理解することをやめるための修行であることを頭で理解してもらおうとしていること自体が笑えます。

わかってもらおうという期待がないと、滞りがなくすべてが流れるように進んでいくような気がします。ただの管になれば、どこにもひっかからずスムーズに流れていくのです。

合言葉は、Be Tube!

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やはり師匠にはかないません