CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

バクティとは<私>を棄てること

ダイジェスト版バガヴァッド・ギータークラスの第3回は、バクティヨーガがテーマ。

私はヨガに出会って真の意味で謙虚になることを学んだ。
なんでも自分の力でなにかを成し遂げようとしていたかつての自分に足りないものは、大いなるものにひれ伏してすべてを委ねるという態度であった。思い上がっていることにすら気づかず、自分の力で自分の運を切り拓こうとしていた。そうしてムダにがんばりすぎては疲れていた。

とはいえ、ご多分に漏れず私も最初のうちはヨガの何たるかを知らず、欧米から輸入された「おしゃれで、洗練された」ヨガもどきをやって、なんとなく自分が浄化されたような気分になっていた。そんな私がその後、インドで初めてバクティ(神への信愛、献身、帰依)というものを知った。

インドになんか行くつもりはなかった。教わりたい先生がいて、できたらバイロンベイか、あるいはバリのトレーニングに参加したいと思っていたのに、タイミング的に合うのがインドしかなかったのだった。それこそが導きだったと思う。仕方なくインドに行ったことで私の進む方向が大きく変わったのだから。

インドのゴアにある小さな漁村でひと月過ごすうちに「おしゃれで、洗練された」ヨガは自分にはいらない、もっと原始的でシンプルなアシュタンガヨガだけでいいと確信したのだった。そのとき学んだバクティの理解はまだ浅かったけれど、ゴアの大自然が大いなる存在を示してくれたので、直感的にその決意が得られた。

それからさらに年月を経て、バクティとは<私>を棄てることだと気づいた。どれだけヤマ・ニヤマを実践しようと努力しても、アーサナを練習しようとも、この<私>というものに邪魔をされては修行の成就はない。<私>から離れるための方法はいくつもあるけれど、誰にでもできる可能性を秘めているのが「バクティ」である。神に帰依してすべてを明け渡し、すべてを神におまかせする。これができれば<私>が消え、教理が理解できなくても、つらい修行をしなくても救われる。

ところが、単純すぎるほど単純なことなのに実行するのは難しい。誰にでもできる可能性を秘めていながら、完全な明け渡しができる人はそうそういない。見るからにエゴのかたまりのような人だけでなく、謙虚に振る舞っている人でも無意識に<私>に執着して、それゆえにその<私>に苦しめられているものなのだと思う。

インドの哲人たちが画期的だと思うのは、「<私>なんてない」とか、「ほんとうの自分はそれとは別にある」などと考えたことである。流派ごとに形は違えども<私>から離れることを説いている。

健康体操だと思ってヨガを練習している人にとっては、「まったく意味わからん。この人なに言ってんの?」としか思えない話なのだけれど、ヨガが単なる健康体操で終わるか、人生を変えるような目から鱗の教えになるかは、この<私>問題にかかっていると言ってもいい。

<私>を向上させるために練習しても、自尊心がくすぐられたり、健康にはなるかもしれないが、エゴはどんどん増長されるだけなので苦しみの解放からは遠ざかる。

ギーターの第9章には、行うこと、食べるもの、苦行することのすべてを神に捧げなさいという一節がある。つまり、自分のために行うのではなく、自分のために食べるのではなく、自分のために修行するのではないということ。それがバクティであり、<私>から離れるということであり、「ただひたすら」行うことであり、BeTuberになることである。もっと具体的には「毎朝やるのが......」ああもうウザいですね。

......と、わけのわからない話をここまで読み進められたあなたには、インド思想を学ぶ素質があります。初めて聞いたら目を白黒させちゃうような話ですが、CHAZENの座学でもっと目を白黒させてみてください。

www.chazenyoga.com


このダイジェスト版ギータークラスは年内にあと2回開講されます。

*重要なお知らせ*
何回かオンラインとのハイブリッドを試してきた座学ですが、当面オンラインでの受講を見合わせることにしました。オンラインクラス自体は今後も開講するかもしれませんが、そのときはオンラインのみとします。ヨーガ・スートラのクラスのオンライン受講を検討されていた方、誠に申し訳ありません。リクエストをいただければ、別途開講を検討しますのでご連絡ください。


バッダコーナーサナの座り方で一心不乱に調べ物をしていたら、なんか脚がしびれてきた。

知らないうちに片脚を乗っ取られてたよ。

ジャストフィット