昨日のスートラクラスに新人が仲間入りした。
おやつの「手作りおやき」におびき寄せられたともっぱらのウワサだけれど、これ以上避け続けられないと観念したのか、満を持しての参加。もっとも、このクラスの半数以上は2年目以降からの参加者なので、まず第1章の復習をして、ヨーガ・スートラが何を目的に編集されたか、そしてこのクラスで何を学ぼうとしているのかを明確にしておいた。今後も以前やったところに戻りつつ先に進めていく予定だ。
ある意味いちばん重要なことだと思っているのだが、座学は知識を得ることそのものよりも、修練(含アシュタンガの朝練)の目的を見失わないようにするための灯台のようなもの。ポーズの練習をしていると、つい上達だけを目標にしがちで、本来はなんのために練習しているのかわからなくなってしまうから。
スートラの詩句は毎回違っており、その度に新しいことを学んでいるように見えるけれども、実は言っていることは毎回同じ。テーマも結論もひとつしかないから。ある意味では一回のクラスの中にすべてが含まれているといえる。私の言うことはいつものアレ、耳タコのアレ、もうウザいくらいなアレですよ。なのに、よく飽きもせずに続けているものだと感心していたら、結局のところ練習を熱心に続けている人ほど座学も熱心に続けているという単純な答えが得られた。
座学を道標にしながら日々の練習に励んでいる人は間違いがない。両方が相乗して、この修練が正しい方向へ進んでいる。つまるところ、どっちも楽しいからだと思う。
そして、年を経るごとに新人の理解が早く的確になっていく。
これはCHAZEN生がどんどん淘汰されて、理解できる人しかいなくなっているような背景もあるけれども、今年に入ってからスタートした人たちのコメントがめっぽう鋭くておもしろいのだ。
毎回思うのだけど、このクラスは私自身の楽しみだったりする。もしかしたら私の趣味でやっているだけような気もする。しかし、そう考えるとCHAZENでやっていることはすべて私の趣味であり、楽しみであり、生きがいだ。申し訳ないくらいに私自身がすべてを楽しんでいる。
それはとりもなおさず、ヨガの楽しさがわかった人をみる楽しさであり、インド思想のおもしろさに目覚めた人をみる楽しさであり、霊的成長を遂げていく人をみる楽しさである。
やめられないとまらない。
ヨーガ・スートラクラスは来年以降もまだまだ続きます(CHAZENが存続していれば)。そろそろ呼ばれている気がしたらお早めにどうぞ。
プルシャとプラクルティの話とか、なんでそんなにすっと理解するのかがむしろナゾ。