この国もあの国も政治がひどい。
私が物心ついてから、こんなひどい政治家たちは見たことがない。いや、ひどい政治家はいつの時代にもいるものだけれど、マスコミは無力すぎるし、その政治家を支持する人が多いことに愕然とする。私にとっては「こんな世の中ありえない」と目を覆いたくなるような現実だ。
それだけでも十分絶望的になるのに、コロナに見舞われて身動きすらままならないという......。
こんなときに地球を救うスーパーヒーローが登場しないのだろうか。
昭和人の貧困な発想ではスーパーヒーローといえばそんなところだけど、敵をやっつけてシュワッチでは永遠に平和は訪れないよね。
もしウルトラマンが怪獣たちを説き伏せて非暴力で問題を解決し、怪獣たちとともに一丸となって地球をよい惑星にしていく設定ならば、われわれ世代の価値観も違うものになっていたような気がする。ウルトラマンじゃなくて、ブッダマンとかだったら、日本はもっとよい国になっていたはずだ。ま、それだと人気がなくて、すぐに番組が打ち切られていたと思うけどね。
などという妄想はさておき。
現代にもスーパーヒーローは存在する。
HIs Holiness......ダライ・ラマ14世こそ、まさしくブッダマンともいうべきスーパーリーダーだ。
もうわかっている人はわかっていると思う。
どんなにお金があっても、便利で豊かになっても、それが幸福を担保するものではないっていうこと。そればかりか、物質的に豊かになることで、むしろ心は貧しくなっていくっていうことをね。
今なお祖国に帰れずにいるダライ・ラマ猊下とチベットの人たちは、物質的には恵まれているといえないけれど、心は決して貧しくない。
なぜだと思う?
それは仏教という心のよりどころがあるからだ。
ダライ・ラマ猊下がその生けるリーダーとして、希望の光として存在している。
そして、チベットの人たちには、祈りという強力な支えがあるからだ。
祈る人には不満がない。
ふとそう思った。
先日のワークショップで五体投地しながら聖地を目指す人たちの動画をYouTubeで見てもらったけれど、その姿に苦しみはない。疲労や痛み、暑さ寒さはあるだろうけれど、祈りはそれを凌駕するものだ。それがBeTube(只管)である。
彼らは生まれてからずっと、ブッダマンをスーパーヒーローとして育ってきたから、正しいものはどこにあるかちゃんとわかっている。
祈りのなんたるかがわかっている。頭ではなく体でわかっている。
私たち日本人が祈るのは何か利己的な目的があってのことが多いけれど、それは祈りではなく単なる願望だ。だから、その願望が実現しないと不満になる。
五体投地をする人たちには、もしそういった欲望があったとしても、祈っているうちにそれが消えるはずだ。それくらい、浄化の作用が大きい行いなのだと思う。
グルジがアシュタンガヨガに込めた意味もそれと同じだと思う。
残念ながら、その本来の意味とかけ離れたところで大ブームになってしまったけれど、本来はあの、貧しい格好でひたすら身をひれ伏して祈る五体投地と同じものが太陽礼拝であり、アシュタンガヨガなのだと思う。
願望は手放そうと思って手放せるものではない。
むしろ手放そうと思えば思うほど、そこにとらわれてしまう。
何のためでもなく、誰のためでもなく、ただひたすら祈る。ただひたすら感謝する。その儀式として、その踊りとして、太陽礼拝から始まるアシュタンガヨガという祈りを捧げることは、身体の物理的な浄化および精神の浄化に絶大な作用をもたらす。
そして、その思いがCHAZENという場に集まったとき、より大きな浄化のエネルギーが生まれるような気がする。
話は逸れるけれど、先日分校で薪割り体験をしてもらったときのこと。やはりこれまでの参加者同様斧に振り回されてなかなかうまく割れなかったのだけど、「吸って〜吐いて!とか「Hey! Hey! Ho! 」と掛け声をかけるとパカっと割れる確率が上がった。それは、掛け声に乗せた私のエネルギーが伝わるからだ。これは科学で証明できる(まだされてない?)と思う。割る人と声援を送る人のエネルギーが邪でなく、集中して互いに調和したとき、より大きなエネルギーが出力されるのだと思う。
これが超能力の基本理論である。
個々の浄化が進み、集中が高まったときに、能力を超えた能力が生まれる。これは科学で証明できる(まだされてない?)はずだ。邪な思いや雑念がないこと、ひたすら行うこと、集中することがすなわち能力をいちじるしく高めることは間違いない。そう思うと、今ヨーガ・スートラクラスで学んでいることは決して「トンデモ」ではない。
話が飛んでしまったけれど、確かなことなど何もない世の中だからなおのこと、自分の内側に強固なよりどころを築くしかない。難しいことはさっぱりわからないという人でも、ただひたすら祈ることはできる。祈っても収入は増えないだろうけれど、純粋に祈りを続けることで絶対的な幸福が得られるだろう。
もし「私は毎日祈っているのにぜんぜん幸せになれない」という人がいたら、それは祈り方を間違えている。自分の願望成就のために祈ってもまず幸せになることはないだろう。祈ることそれ自体に幸せが見出せるかどうか、だ。
改めて、インドの哲人のすごさを思う。
次の日曜日はヨーガ・スートラクラスです。こんな話に興味があればぜひご参加ください。