CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

手探りで生きていく

日曜日の予定を中止やオンラインにする中で、これだけは予定どおり実施と思っていたのがポーズ分解講座。11月のポーズ分解講座は、自分が意図していたよりもずっと有意義なものになったのでこれは延期したくなかったのだ。

昨日がそのワークショップだったのだけど、いざその時になったら、前回のどこが有意義だったのかすっかり忘れていることに気づいた。

そう言うと、一同大爆笑(ってか大ブーイング)。


いいんです!
終わったら忘れて、また新しくやればいいんです。一期一会です。


というのは言い訳で、われながら見事に忘れていた。
そもそもこのワークショップは仕込みをしないから、メモ書きすら存在しないし、余裕がなくてブログにも書いてない(......と思ったら、書いてたけど)。慌てふためいていた11月〜12月の記憶が完全にとんでいてコワイ。

こんなゼロ仕込みのテキトーワークショップでいいのか? という気もするけれど、

いいんです!

仕込みをしないのは、息の通ったイキのいい言葉だけを語りたいから。
その時その瞬間に沸き起こってくる思いだけを伝えたいから。
自分が経験した、実感がこもる言葉だけを話したいから。


とか言うと、ずいぶん自信満々に見えるかもしれないけれど、そんなことはない。いつだって「これでいいのだろうか?」と思いながら、暗闇の中を手探りで歩いている。

人生のゴールは見通せないものだから、最後の最後まで何が正解かなんてわからない。今失敗したと思っていることの多くは、後にあれでよかったいうことになるのだと思う。だから、自分のふるまいをいちいち採点しなくていいのだ。向上心をもつことは生きるためのエッセンスだから、失敗を活かして次につなげるのはいいが、何が間違いで何が正しいかという判定を下さなくていいような気がする。

たとえば誰もが経験すると思うけど、自分のポーズが間違っていないかかどうか気になる。けど、大抵の場合そんなことは気にしなくていいのだ。ケガにつながるようなことや、アシュタンガヨガとしてはっきり決められた順番やヴィンヤーサが違っていたら修正するが、それ以外は絶対的に正しいポーズの形などない。その人に合ったやり方を助言したりはするけれど、それもひとつの提案にすぎない。正しいも間違いもなくて、あるとしたら仮の目標に設定する「理想的な」形だけ。だけど、どうしてか(特に日本人は)自分が正しいかどうかが気になる。

そんなことを考えるうちにふと思ったのは、今、このコロナ渦の中で私たちに必要なのが、この「正解を求めない」という態度なんじゃないかってこと。

世界中が暗闇の中を手探りで歩いている。
何が正解かわかるのはまだずっと先のことで、今はまさに暗中模索の段階だ。

暗いばかりではっきりと光の差す方向も見えないから、ある人はこっちだと言い、別の人はいやあっちだと言い、分断は深まるばかり。コロナに対する警戒心の度合いに開きがあるから、親しい人でさえ信頼関係が崩れることもあるし、気遣いで疲れる。地方に住む、やさしくてあたたかい、いわゆる「いい人」たちが、東京の人を病原菌のように考えるようになる。

私たちは常に、自分が正しいかどうかを判断する習性を身につけている。
そして、他人にもその基準をあてはめようとする。こんな自分はダメな奴だとか、あの人はあんなことしていてよくないとか、ついジャッジする習慣ができている。そのこと自体がどれだけ自分を苦しめているかに気づかないまま......。

だからまずはアシュタンガの練習で正解を求めることをやめてみてはどうだろうか。
それよりも、呼吸を感じ、身体を感じ、心を感じて、そのままの、今のままの自分を楽しんだらいい。呼吸と動きがシンクロして心地いいリズムを刻むようになれば、見た目がどんな形でもそれが理想のポーズなのだと思う。心地いいリズムにならないのなら、手探りでそれを探してみよう。宝探しをするように。


そうやって頭の中をカラにして練習を続けているうちに、正解はわからなくても直感で進むべき方向が見えてくる。迷いがなくなる。外がどんなに真っ暗でも、自分の内側に光が灯る。アーサナ練習を長い期間続けて、身体にも心にも余計なものがなくなったときに、その光が灯るようになる。

正解を求めなくなれば、自分にも他人にも寛容でいられる。お互いが暗闇を手探りで生きているのだと思えば誰もが仲間なんだよね。

人だけでなくウイルスだって......。

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手探りで徘徊するシュー理事長