CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

盲亀浮木2021

手放すと入ってくるとよく言いますけれど、茶禅会を手放したら、星覚さんの坐禅会が今年に入ってすでに3回行われ、うち2回はご本人登場という、願っても叶わないようなことがあっさり実現してしまいました。

これまでは日本に帰国されるタイミングで何か企画するというスタイルでしたが、まさかのレギュラークラスにもなりました。「ようやく」なのか「今さら」なのかわかりませんが、成り行きとは面白いものです。

昨日は、坐禅のあとで「正法眼蔵随聞記」を読み、感想や疑問をシェアするこれまでの茶禅会と同じ進行でしたが、いつもより星覚さんがたっぷり目にお話をしてくださいました。

正法眼蔵随聞記」は、出家したお坊さんに向けて道元禅師が説かれたことが書かれているので、ときにシャバの人間が聞いたら理解に苦しむようなこともあるのですが、星覚さんはお坊さんの立場から身内の発言をフォローするような態度でシャバの人間向きに解説しつつ、やんわりと、おだやかに仏法について教えてくださいます。(お坊さんでない私はむしろその過激発言側に立って煽るのですが......)

最初に話されたのが「盲亀浮木」のこと。
この言葉がなつかしくて、6年前の記事を読み直して、禅の旅のこと、志賀直哉の短編のこと、さらには理事長の若かりしころを思い出してみたり......。

chayoga.exblog.jp


たぶんすべてはなるべきように定められているのだと思います。

だからといって努力しなくていいということではなく、努力したから実を結ぶこともあれば、努力してもうまくいかないこともあるということです。

そのとき「なんであんなに努力したのにダメだったんだろう」とか「やっぱり何かが足りなかったのだろうか」などと考えるのではなく、「ああ、そういう風に定められていたのだ」とただその現実を受け入れられたら苦しまなくて済みますよというのがインドの教えなのだと私は解釈しています。

ギーターには「願望を抱かず......」などというフレーズがよく出てくるので、それをただ字義通りに理解すると願望を持って努力することがいけないように勘違いしてしまうかもしれませんが、ギーターで説かれていることは行為の結果に執着するなという教えです。

もちろん理想的には一切の願望なく修行に打ち込めたら最高だと思いますが、現実としてはまったく願望なしに修行を始めて、いっさいの願望なしに継続できる人など稀だと思います。大抵の人はなんらかの志を抱いて修行を成就しようと「発心」するのですから。

ただ、大志を抱いて朝練を始めたけれど続かない人もいれば、なんとなく始めて気づいたら10年経ったという人もいます。すごく熱心に練習していても、環境の変化をきっかけにあっさりやめてしまったりしますしね。そのへんが「定められている」と思うゆえんです。理想の形ではなくても、なんだかんだ問題を抱えていたとしても、続けている人はそのように定められているのです。

そういえば、私がマイソールを始めたのは友だちが「夏休みのラジオ体操やで」というので便乗しただけですし、永平寺も人に誘われて行ったのが最初でした。どちらも私は一発でどハマりしたわけですが、きっかけとなった人たちはそのあと続けていません。

たまたま誘われて水面に浮かんだらスポッと浮木の穴に入ったわけですから、これらのご縁をありがたく思うよりほかありません。

次回は3月14日のオンライン坐禅会の予定です。どうぞ気軽にご参加ください。

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蕾がもう開いてきた