なんて気持ちのよい朝
今朝のオンライン坐禅会は坐禅と朝課(朝の勤行)という特別バージョンでした。
これがよかった〜。
参加者それぞれの朝が永平寺の朝になったのですから......。
6時からの坐禅は短めバージョンでした。
坐禅の最後に星覚さんがお袈裟を頭に乗せて偈文を唱えます。
何と唱えていたか知りたい方はこちらをご覧ください。
久しぶりにこれを聞いて、ハッと我に帰る思いがしました。
続く朝課もフルで唱えるのはずいぶん久しぶりで、口が回らなくなっていましたが、ダメ人間にやる気スイッチが入ったように背骨シャキーンです。あとで「浄化された」という感想があったように、オンラインでもマイナスイオンのシャワーが降り注いでいるがごとく、聖なる時間と空間に変わりました。
永平寺の修行を終えてすでにかなりの年月が経っている今も、お経以外の細部までちゃんと再現できるほどにこの儀式を行じ続けている星覚さんに、改めて畏敬の念を抱きました。仕事でもなく、何かの得になるわけでもないことを、ただひたすら毎朝行う。それこそが只管=BeTubeなのです。
参加された方は、おそらくそのサットヴァによって心が浄化されるのを感じたことでしょう。ただのお経ではない何かを受け止めたことでしょう。頭で理解する必要などこれっぽっちもありません。感じるだけでいいのですから。
朝課で、それぞれのお経を読んだあとに回向といって略三宝を唱えましたが、その意味について星覚さんが事前に解説コメントをくださいました。
ご縁でつながるこの星全てに祈りを届け、お経の功徳を巡らせる作法です。
自分のためだけではないのです。
上記リンクの「衆生を渡す」ということは大乗仏教の基本です。自分よりも先に、生きとし生けるものすべてが救われることを願うのですね。私たちから見たら、それこそがお経のありがたさなのだと思いますが、よく考えると修行者としてもそれが理に叶っています。
なぜなら、自分が悟りを開くことに執着している間は悟れないからです。
自我を離れたところに悟りが「訪れる」わけですから、いかに数多く坐ろうがお経を唱えようが、自分が何者かになるために行っている間は悟りはやってきません。
「衆生のため」というのは、字義どおり衆生を救うという目的以外にも、自己を忘れるために重要なのですね。
月曜の早朝にもかかわらず、今朝は多くの方が参加してくださいましたが、CHAZENの禅仲間には、ひとの役に立ちたい、祈りをめぐらせたいという観音様的な人が多いような気がしました。そして、そういう人には、やはり福がまわってきているのを感じます。
すがすがしさ極まる朝でした。
これを持続させるべく、今週はこの星に棲む生きとし生けるもののことを考えて、「ひたすら」な時間を過ごすことを課題にします。
さて、今度の日曜日のヨーガ・スートラクラスには、そんなこんなの仏教からめての、インド哲学史にも触れての、ちゃみこ節注意報が出ております。ご参加をお待ちしております。