CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

4日目:財宝は身を苦しめる

ごきげんよう
誰にも頼まれていないのに、なぜか毎日書かないといけないような気がしてきた臨時休校4日目のテキトー日記です。

今のところ着実にTO DOリストを消し込んでいる感じではありますが、何かに着手すると次の課題がどんどん出てくるもので、消し込むそばからリストが増え続けております。そのひとつが断捨離マター。

家や車を所有しないと決めてから、もう15年くらいかけていろんなものを手放してきたのですが、どうしても捨てられないものというのがけっこうありまして。それらは実家に置いてあったのですが、その実家も手放し、さてどうするかと考えるときがやってきました。

そのひとつが着物。
洋服とは価値が違うことに加え、母が残してくれたものでもあり、どうしたものかと思っていたのでした。そんなある日、坐禅会で読んだ随聞記にこういうくだりが出てきたのです。

龐居士は俗人であったが、僧に劣らず禅席に名を残したのは、次のようなわけがあったからである。龐居士が参禅し初めた時、家の財宝を持ち出して海に沈めようとした。人がこれを見て、「人に与えるなり、仏事にでも使われるがよかろう。」と言って意見した。彼はその人にこたえて、「わたし自身すでに身のためにならないと思って捨てるのである。どうして他人に与えることができよう。財宝は身を苦しめるあだかたきである」と言った。そして、とうとう全部海に捨ててしまった。

ちくま学芸文庫正法眼蔵随聞記』 4−9 学道の人は先ずすべからく貧なるべし より引用


これを読んだあと、着物を手放すことにしました。
買った時の金額を考えるともったいないと思いますが、業者に売ったらボロ切れ同然の値段にしかならないものです。龐居士(ほうこじ)の財宝がどれだけのものだったかは書いてないのでわかりませんが、うちの着物など財宝でもありません。

そもそも、この10年ほどはそれらの着物を着ていませんし、「すべからく貧なるべし」の教えに従って生きる生活にはこの先必要になることもないでしょう。それこそ持ち腐れです。

とはいえ、海に捨ててはいません(現代では不法投棄)。
タンスごとそっくり、着付けの先生でもある叔母に引き取ってもらいました。思えば、形見分けのとき、一枚一枚の着物を広げては母がそれを着ていたときの思い出話に華が咲き、大笑いしながら故人を偲んだのですが、その時間こそが最大の価値ある形見だったのでした。心でそれらすべての着物を着尽くしたのだからもう十分満足なのです。


お山を片付けていて思ったのですが、断捨離してものを減らしたいが、ゴミを出したくはない。アンビヴァレントやなーと。

私にとっては不要のものでも、誰かにとっては必要なものかもしれないと思うと、そう簡単にゴミとして出せません。貰ってくださる方を募集してだいぶ片付きましたけれど、それでもなお捨てられず持ってきたものをこの休み中になんとかしたいと思っています。

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いろいろなものを残してきたのですがね


今や、あとひとつ壁をクリアしたらスナフキンになれるところまではきたのですが、ゴミ同然のモノが捨てられないタチでして......。

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この子は連れて帰りました


地球にやさしいフリをしながら、すぐまた新しい風呂敷を広げてムダなものを増やしてしまうサガでもあります。

それでも、所有にとらわれないで、つまり<私のもの>という思いをもたないことによって得られる心の平穏さは、もつことの喜びをはるかにしのぐものだと思っています。今はモノを所有することがその人のステータスにはならない時代なのだろうなと思います。