CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

聖なる時間と空間

胃に食べ物を入れてしまったらできなくなるアシュタンガの練習とは違って、坐禅はいつでも可能だ。摂心など1日中坐っているわけだから、時間帯には関係ない。関係ないはずだけれど、できれば夜が明けないうちに坐りたい。まだ薄暗いうちにスタートして、お香が燃え尽きるころに明るくなっているのが理想だ。

今の季節は夜明けが早いし、犬が起きたらすべての時間をお犬様に捧げねばならぬのでその前に坐りたい。ところが、私が早く起きるとなぜか犬も早く起きるようになる無念......。犬の世話をひととおり終えてから坐ればいいだけの話なのだけど、そういう日常の雑事を挟むともうそこは別の空間になってしまう。

空が白んで世の中が動き始めると、空間のもつエネルギーが変化するのを感じる。そうなる前に、神聖な闇と静けさの中で、聖なる時間に包まれることが私の魂にとって何よりの浄化となる。坐禅が終わった後に夜が明けているのは、プラクティスのあとに光を見出す象徴のようでもある。

とびきりの聖なる時間のあとも、準・聖なる時間は続く。世の中が動き始めて騒がしくなるまでの時間はプラクティスに最適な時間だ。もちろん、自分に向き合う時間をもつことが大事なので、プラクティスは日中だろうが夕方や夜のどの時間に行ってもいい。それでも、やはりおすすめは早朝、CHAZENマイソールの時間帯だ。

臨時休校明けの、とある早朝に、私の役目はここを聖なる空間にしておくことなんだろうなとふと思った。よき指導者であるための諸条件を達成することよりも(それも大事だけど)、汚れのない空間にしておくことがCHAZENらしさのような気がした。実際には聖なるどころか、老犬が徘徊してたりする俗な空間なのだけど、なんだかそう確信した。

ほとんどの人は「聖」とはあまり結びつかない営利を目的としたお仕事をされているし、家族をもち、社会人として必要な日常業務とともに生活している。それだけに、早朝のひとときそこから離れて「特別な」時間をもち、自分と向き合うことは、それぞれにとって「聖なる」時間なはず。それを感じるからこそ、早起きしてまでCHAZENに来るのだと思う。

早朝5時半〜の時間帯は汚れていない聖なる時間度が高い。今お出ましになったばかりのスーリヤ様とともにプラクティスする歓びを味わわれたし。


お掃除してたら、理事長が自主練をされているのが目に入り、掃除機放り投げて激写した。

f:id:chazenyoga:20210531184019j:plain
これがシューチャナーサナBだ


しかし、聖という言葉を多用すると、とたんに安っぽくなって俗に落ちるのであまり使わないようにしよう。

蛇足ながら、4年に一度の「聖典」は、ただの金まみれの祭典であることが誰の目にも明らかになりましたしね。