きのうのこと。
散歩&買い物を終えて帰宅し、犬の夕ご飯をふやかしている間に買ってきたマンゴーを食べた。熟れ熟れなので種のまわりに残っている果実がもったいない気がして、シューになめさせようと考えたことがそもそもの間違い。
ジューシーだからペロペロなめると思ったんよ。
ところが、「メシはどこだ?メシはどこだ?」と飢えた狼状態だったためか、いきなり種ごとガブっと噛んで死んでも離すもんかとすごい力で噛み締めている。もはや後ろ脚だけでは支えがあっても立てないはずなのに、まさかの二足で立ち上がって踏ん張っている。マンゴーの種はさすがに丸呑みできないだろうから、そこで私が手を離せばそのうち落としただろうに、無理矢理口から取り除いたのが大間違い。
マンゴーを奪取した瞬間、犬の歯が私の薬指をとらえて今度こそ取られまいと力強く噛んだ。
ぎゃーぁぁぁぁぁぁぁあああああ!
絶叫したのは、痛みもあるけれど、犬を驚かせようと思ったに違いない。
犬のしつけをする過程では、遊んでいて甘噛みしたのが痛かった場合、大袈裟に痛いっ!と声をあげると、犬は悪いことをしたと気づくし、加減がわかるようになる。
しかし、それは耳が遠くなり、目が見えず、認知機能が損なわれた犬にはなんの意味もなさなかった。このままでは指が粉砕されると青くなり、必死で口をこじあけて指を抜く。
しばらく指を動かせないほど痛い。重傷だ。
傷はさほどではないが、じわーっと出血。
とりあえずアルニカを一粒とったらすぐに血がとまった。
犬はといえば、青ざめて救急処置に走る私のことなどまったく感知せずに、ご飯を求めて徘徊を続けている。
そのとき......
私の中に「憎しみ」の感情が湧いた。
犬に悪意はまったくないし、そのタイミングでマンゴーを種ごと与えた自分が100%悪いのだけれど、人の指を噛んでもまったく意に介さず、ご飯を探して徘徊する犬にはっきりと憎しみを感じたのだった。
噛まれたこともショックだったけれど、こんなおじいちゃん犬に対して憎しみが湧いたこともかなり衝撃だった。そこに自分のダークサイドを見た。
その感情をそのままぶつければ虐待になるのだろうし、その感情を殺しているとたまって大爆発する原因になったりもする。(どっちにもなっていないのでご安心を)
この自然に湧き上がる負の感情はなんなのだろう。
たとえば、何か不都合なことをされても、相手がひたすら謝ったり低姿勢でいれば気持ちが治まるのに、平気な顔していると気に入らないという、この違いはなんによって、どのようなメカニズムで生まれるのだろう。
もしシューが少しでも悪いことしたという態度をしたら、逆にかわいそうになって抱きしめていただろうと思うと、感情によって対象は良く見えたり悪く見えたりするものだということがよくわかる。すべてのものごとはそれ自体良くも悪くもなく、受け止める側の認識や湧いてくる感情で変化していくものなのだ。
ヨガ(瞑想という意味での)の鍛錬を続けていると、こういった感情をコントロールすることが上手になる。私がよく実践しているのは、自分の心の動きを第三者の目で見て、それに気づき、受け止め、やり過ごすというヴィパッサナー的な瞑想の方法。おかげで湧き上がった感情を流すことには長けてきた。
ただ、いかにスマートにそれを処理できるようになったとしても、その感情自体は依然として湧いてくる。その事実に愕然としたのであった。スートラでいうところのサンスカーラ(西洋心理学で言うところの潜在意識のようなもの)の力がまだまだ根強く残っているということだろう。
ジンジン痛む指をアイシングしながら、そんなことを考え込んだりもして、昨日はなかなか寝付けなかった。そして、私の関心はこういった人間の心理や脳のメカニズムにあり、だからこそヨーガ・スートラを興味深く味わえるのかもしれないと思った。
スートラ探求の道も、ヨーガ実践の道もまだまだ先は長いね。
ところで、シューがいつにも増して食欲にとりつかれているのは、おいしいものをいただいたから。先週の金曜日に届いたケーキ。

中を開けてゴソゴソしていると......

嗅覚だけはまだ衰えていないようで......。
追記:
今さっきてんかんの発作が出て、昨日今日の尋常でない状態のわけが判明しました......。