CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

もらい泣き

昨日のスートラクラスは、いよいよ三昧章の最終段階に入って、コムズカシイ話を展開せざるを得ないところに差し掛かりました。

第1章のハイライトだけに話すことはいくらでもあるのですが、話せば話すほど受講者が混乱するであろうことは想像に難くありません。それで、単純明快な説明だけにして、ほとんどの部分を捨てることにしました。その選択は間違っていなかったと思います。

結果、今期から参加された方たちは難しいと思ったようですが、2017年に同じ箇所をすでに習った人たちは、異口同音に「最初のときはさっぱりわからなかったけれど、今回はすごくよくわかった」とのことでした。

5年学び続けた成果が可視化される瞬間は、歩いてきた道のりを思い知るときでもあります。ギーターから数えると7年も8年も私のしゃべりに付き合って、ようやく腑に落ちていった瞬間はそれぞれに感慨深いものだったことでしょう。わからないからと投げ出したらそこでおしまい。そこから延々学び続けた先にようやっと花が見られるのです。そして、果実の実りはまたそこから先かもしれません......。それだけ時間を要する深い学びなのですね。

ところで、昨日は、最近図らずも人生の困難な局面に出逢った人が、以前は考えもしなかったアーサナだけでないヨガの実践に目覚め、そこからさまざまな気づきを得て大きく成長した話をシェアさせていただきました。極めてパーソナルな話になるので、前もって本人にシェアしていいか確認したところ快諾してくれました。家族以外にはあまり話していないけれど、スートラの人たちなら問題ない、CHAZENファミリーだからと言ってもらったとき、このサンガにそういう安心感が醸し出されていることがとてもうれしかったです。

本人の口から語られる心境の変化と気づきを聞いて多くの人が共感したようです。彼女の姿に感動し、さまざまな思いが込み上げてきたであろう某嬢の目から涙があふれるのを見て、思わず鬼ちゃみこの目にも涙です。あら困ったとそっとマスクで拭きましたけど(!)、タオルで目を押さえている人たちの姿が目に入り、こういう感情を共有できることが不思議でもあり、興味深くもあり、すばらしいと思ったのでした。

年をとるともらい泣きすることが多くなりますが、泣く人を見ても心が動かないときもありますし、泣かれれば泣かれるほどこちらは冷めてくるような涙もあります。相手の思いが伝わるからこそのもらい泣きです。

どちらかというとドライで、湿っぽいのは苦手な私ですが、こういうウェットは嫌じゃありません。それに、感情に流されることはヨガからは離れるというか、修行にはむしろ邪魔になることですが、こういった思いを心の奥底で共有できる人間っていいなと思います。たとえ、それが苦しみの元になるものだとしても、私はこれを切り捨てたくないですね。

ちゃみさん出家してしまうんじゃないか説が流れた時代もありましたが、いいないいな人間っていいな♪と歌いながら、これからもたぶんシャバ世界で生きていくでしょう。聖と俗のあわいを生きているのが私にはちょうどいいかなと。コウモリみたいなものです。どちらにも属さない、どちらの仲間にもなれない中途半端なポジションが自分には合っているような気がします。

そういえば最近大泣きしたのは......と古いブログを見てみたら2013年でした。「最近」って10年近く前ですけど......。

chayoga.exblog.jp


昨日はシューちゃん瞑想をしました。ナンダソレ。

われ関せず......