生まれて初めて味わった国家的クライシスだった。
東北の惨状に比べたらなんでもないこととはいえ、自分が目にしたさまざまな光景が今でも目に焼きついている。社会全体が平常心を失っていた数ヶ月は、ある意味ではまた、人が本来もつ善良さが浮き彫りにされたようにも思う。
特に思い出されるのが、神楽坂の公民館で催したチャリティクラスのこと。当時の通称チャミソールに来てくれていた人たちはもちろん、誘っても来なかった人がそのときは来てくれたりとか、雨の中子どもをおんぶして参加しないのにお気持ちだけを持ってきてくれた見知らぬ人とか、募金箱に諭吉さんがたくさん入っていたこととか、厚い熱いお気持ちが忘れらない風景として心に刻み込まれている。
こういうことがあって、己の生き方振る舞いを考え直す機会になったようにも思う。ちょうど永平寺の参禅に申し込もうとしていたときで、当然ながら延期になったのだけれど、6月には実現したし、8月に四国に行って弘法大師の足跡をほんの少し辿ったり、9月は奈良京都で寺めぐりして「仏道まっしぐら元年」となった。昨年、修行に行く前に奈良京都に滞在していたのも、修行のあとで四国歩き遍路をしたのも、これらの旅がきっかけだ。
たまに昔のブログを見ていて思うのは、仏教のことも禅のことも何もわかってなかった当時だけど(今もだけど)、それほど外してはいないということ。考えていることは案外今と同じだったりするし、あの時あっての今であることを実感する。出家しないと断言していたけど、こうなることは必然だったのかもしれない。
もうおしまいにしたつもりの「3.11がめぐってきた」を復活させようと思ったのは、旧ブログの記事ランキングに表示されていたこの記事と写真を見たからだった。誰かが見てくれたのだね。
ずっと心に残っていたこの写真であり、この僧侶であるけれど、自分もまた僧侶となった今は、眺める方向があちら側でなくこちら側になった。再び気になってググってみたら、このお坊さんの所属するお寺がやはり、いわゆる普通のお寺とは違う。お師匠さんのおっしゃることも違う。パフォーマンスではなく、本物の祈りだったからこそ、それが投影され、人の心を打つ写真になったのだろう。
シャバに下りてきて「ぜいたくはしない、自分の楽しみのために外食をしない」を貫いてはいるものの、暖かい部屋でお腹いっぱい食べている場合じゃないだろと思う。ちなみに、こういう態度のことを「ストイック」と言う人がいるが違う。ボクサーが試合前にとことん絞り込んでいくようなものではなく、それが長く持続する、自然で心地よい生き方になる。そういう道なのだ。
ぼんやりしていたら、あっという間に心も身体も動かなくなってしまうから、毎日をしっかり生きていかなければと改めて感じる。もう一度2011年当時のビギナーズマインドを思い出すよいきっかけになった。ちょうど来週から新しい拠点に移るので、新しい気持ちで新しいことをはじめよう。