先週、私の都合で延期になっていた平日の遠足会が行われました。2月の遠足会からだいぶ空いてしまい、鎌倉からも引っ越してしまったのですが、ようやく実現に至りました。
まずは腹ペコ(いつも)で向かった南インド料理のお店がなんと臨時休業。で、急遽地元のお友達が絶賛する中東料理のお店に変更しました。納得のおいしさ、これぞ私の求めている理想の外食ランチなのでした。そう、おかず系つまりデリがうれしい。ゲストたちも大喜びです。

今回はハイキングなしで、北鎌倉のお寺を巡りました。前回も訪ねた浄明寺と東慶寺は必見コースです。両寺院とも、何度でも行きたくなるお寺なのです。特に東慶寺は、前回訪ねたときに毎月18日だけ公開される観音様がいらっしゃると知り、最優先で行く気マンマンだったのですが、その後のバタバタでまだお目にかかれておりません。
臨済宗のお寺は「禅文化」を感じやすいようにも思えます。私が初めて読んだ禅の本は鈴木大拙「禅と日本文化」でした。それは私が禅をまだ勘違いしていたころの、道元禅師の禅に出会うはるか昔に読んだ本でした。外国で理解されているZENがこの日本文化なのだとしたら、それは本当の禅でないとしても、とてもわかる気がします。なんかステキに見えますもの。
この日はお天気がよく、途中半袖になりたくなるほどの陽気でした。それだけに富士山は見えませんでしたが、ゴールデンウィーク前の閑散期で観光客も少なめでしたから、どこもゆっくりと、心地よい風を感じながら散策ができました。東慶寺脇にあるクラシックな落ち着いた雰囲気の喫茶店でお茶をして、オトナのキタカマ風味も味わえて楽しかったです。
今回は円覚寺にも行きました。メジャーどころはコースから外す私なのですが、よく話題に上る横田老師のお寺を知っておいていただくことにしたのです。広い敷地と高低差でけっこうな散歩ができ、伽藍や景観がすばらしいのですが、円覚寺の真の見どころはそれ以外のところにあるのです。
何より毎朝一般の人向けに坐禅指導をしていることが実に尊い。一般の参禅者だった私は、門を開いてくれていることがどんなにありがたいかを知っています。伝統的な禅を踏襲されながら新しい試みを積極的に取り入れている横田老師からも目が離せません。
お正月にマイソール浦安でお話したとき、毎朝マイソールに行く道中に横田老師のYouTubeを聴いているという方がいて、仏教的な話の通りがよかったのです。横田老師のおかげさまです。文字でも読めます。
歩きながらふと拝観料を払うといただくチケットを見ると、絶対ゴミ箱にポイっと捨てられないような言葉が書いてありました。
総力をあげて
長い人生で、時には死にたいと思うほど、
辛く苦しい時もあります。
そんな時にあなたの足は死のうとしていますか?
ちゃんと大地を踏みしめています。
あなたの足は死のうとはしていない。
手も死のうとはしていない。
内臓も一生懸命消化しようとしているし、
目も同じです。
60兆以上ある私たちの体の細胞は、
みな生きようとしている、それが真実です。
「もう死んでしまおう」と思っても、
体はいのちを生かそうと
絶えることなくはたらいている。
そのはたらきこそ仏様なのです。
そんな素晴らしいいのちを、
今こうして生きているのです。
はう......やられました。
いつの日か私も、これくらいわかりやすい言葉で仏法の何たるかを伝えてみたいものです(刹那滅とかダルミンとかじゃなく)。そのためには言葉を磨くのではなく、自分を磨くしかないわけです。いくら言葉で表現しようと技術を磨いてもダメなんですね。それこそ、細胞のひとつひとつに埋め込まれた見えない力が私を形成して、それが自分以外の存在に影響を与えるのです。
さらには、すべてのそういった見えない力のおかげで私自身がみ仏の方向へと導かれています。近ごろとみにそれを感じるのです。私がちょっとサボろうとすると、見えない力がちゃんとそれを阻止してくださる。少し方向が逸れると、その力が修正してくださる。
もう自分の意思を超えて、他には行けなくなっている、そんな気がするのです。そのことに深く感謝をいたす日々であります。
