古武術の稽古を始めて半年。古武術と禅は、まさに阿吽の呼吸でつながっていると感じています。これまではアシュタンガと禅を結びつけて考えてきましたが、古武術はもっと近いというか核心に触れる感じがします。
が、これってまさに禅じゃん!とのたまいつつも、ぜんぜんできない自分がいます。アタマでは理解してもカラダがなんとも不如意なのであります。ワタシの習性として、アタマで考えて論理で何かをしようとしてしまう。古武術ではついアタマでっかちになってしまうのです。
これまで私はどちらかと言うとカラダでっかちの人間だと思っていました。ルックス的にアタマ小カラダ大なので、自虐的にそう言っていたのですが、よーくよく考えると、いつも何かを考えて何かを企んでいるこの妄想癖はアタマ先行ゆえ。アーサナの指導からオンラインクラス中心に移行して、さらにアタマ偏重になったのかもしれません。
稽古中の私は意志の塊みたいになっているのでしょうね。毎度、先生に指摘されます。そのたび我に返り、大笑いしてしまいます。無意識のうちに闘志マンマンの気配を漂わせてしまうので、相手にバレバレなんですね。犬みたいに思いがダダ漏れているのです。いえ、犬は感情ダダ漏れでも邪な妄想はないから、犬以下です。
そして、その邪な妄想
んにゃろー。今度こそ!
っていう無駄なやる気が技を無力化してしまうわけです。もはやこのやる気は悪癖としか思えません。しかし、それに気づくということが大事です。ふだん無意識のうちにどれだけ力んでいるかと思うと、ちょっとコワイですね。禅や古武術の稽古は、よけいなことをやめるための練習なんですね。言うなれば捨離の稽古です。
ヨガをしていたときは、アーサナだけでなく、すべてにおいて、なにかを得るため、もっとよい自分になるための行いをしていたように思います。向上することを目指して何かをするという刷り込みのなかで育っている私たちには、捨てるための稽古というのが難しいのです。あれも捨ててこれも捨てたら、どんなにか気持ちは楽になるのに、あれも惜しいこれも惜しいと執着してしまいます。持てば持つほど、なくなったらどうしようと心配になることには気づいていません。
坐禅にしても、最初のうちはヨーガと同様なにかの境地になるためのものだと勘違いしていました。何もしない、何もならないと聞いたら、誰がそんなものやるの?と思いますが、その深遠さがわかれば納得します。禅に一生懸命取り組んでいても、真の意味がわかり、そのための坐禅ができるようになるまでには時間がかかりましたから、古武術もそのうちカラダでわかってくることでしょう。
そういえば、先日近くの山をハダシで歩いてみたところ、砂利道でもさほど痛みを感じませんでした。深窓の令嬢だった足の裏が、世間の艱難辛苦を経て鍛えられたようなものです。可愛い子には旅をさせよ。可愛い足の裏にはハダシで旅をさせよ。
思うようにはいかずとも、捨離の稽古をしたあとは、すがすがしく、クーラーのない会場で2時間稽古しても、猛暑の中を往復1時間自転車を漕いでも、気分爽快でした。

ところで、今日から福井行きの予定でしたが、永平寺での行持自体が中止になりました。せっかくなので、22日(日)の12時〜、そして24日(火)の10時〜、逗子にて気楽なお茶飲み会(坐禅も体験できます)を行います。詳細は下記までお問い合わせください。
samgha7676@gmail.com