なんなん三昧

旧「CHAZEN三昧」からタイトル変えました

お布施について考えること

ここ数日ニュース記事にオウムの文字を見ることが多くなり、宗教について考えている。あれほどの事件を起こしながらも存続している(信者がいる)というそのことはどうとらえたらよいのか。いまや宗教界の末端に身を置く者としてスルーできない。

昨日8月の陰ヨガの案内文を書いていて、料金を設定すべきか否か悩んだ。今回は仏教の教えではないので、普通に受講料を設定したほうがいいとも考えたが、料金のハードルを作らないことで参加しやすくなる人もいるかもしれない。いや、それとも料金が設定されてないがゆえに参加しづらくなる人のほうが多いのか?と逡巡し、結局「お気持ちで結構です」としたものの、続けて余計な一文を添えてアップし、あとで削除するというダサいことをした。

「お気持ちで結構です」は、意味がわからない人にとってはとてもオソロシイ、裏に何かありそうな言葉である。

私自身が「お布施」に対して、葬儀のとき寺院に支払う「得体の知れない高額なお礼」という印象を長いこと持っていたし、もし禅の世界に足を踏み入れてなかったら、今でもそう信じていたと思う。「宗教」という言葉と同様「お布施」には本来の意味とかけ離れた悪いイメージが染み付いてしまっている。

ならば、お布施とは何か。
いただく側になった私がそれを書くのは憚られるし、できれば涼しい顔をしてそこには触れないでおきたいところではあるが、あくまでも寺院に属さない半人前の個人的な見解においては、以下のようなものといえる。

「お布施」とは、宗教的な(尊い)活動をしている人や団体に対して、自分のもっている何かを量の多少にかかわらず分け与えることで、その修行や活動が続けられるように励ますこと。

お釈迦さまの時代には、出家者は自ら田畑を耕すこともなく、物を売り買いすることもなく、人から施される食べ物をいただいて暮らしていた。お釈迦さまのような尊い生き方をしている人に対して、貧しい人は自分の食べるお米などの一部を分けて差し出し、お金持ちの人は、その教えが広く長く伝わるようにと、僧団に対して住む場所や必要な物資を提供していた。その行為自体が布施する人の功徳にもなる。

現代においても、菩提寺と深くつながっているなど日ごろから仏教の教えをよく知り、その有り難さを感じている人にとって、お布施は決して不可解なものではないはずだ。そもそも「教え」自体が伝わっていないことがいちばんの問題なのだと思う。しかし、世のお寺さんのご子息たちから聞いたところによると「そんなことやっているヒマがない」らしい。

それならば、お盆もお彼岸もまったくフリーな私が代わりにお伝えいたしましょうとお役目を買って出たものの、一般の人には「常識はずれ」の僧侶もどきにしか見えないと思うと悩ましい。

いっそのこと「一切何もいりません」と言えればいいけれど、寺院も僧侶もサポートしていただかなければ存続できない。

一方で、お寺に属さない僧侶として半年以上経ち、徐々に覚悟はできてきた。いよいよ飢え死にしそうになったら、チリーンと托鉢行に出よう。勇気は要るだろうけれど、僧侶の特権で堂々と乞食(こつじき)ができるのだ。その前にいろいろと困ることがあるかもしれないけれど、そのときは困ればいいだけの話。それで死のうが病気になろうが、何も恐れることはない。それよりも、お布施を頂戴するに値する自分自身であるよう精進することのほうがずっと大事だと。

と偉そうなことを言いながら、オンラインクラスだけは受講料を明確に設定している。振り込みでは金額が明記されるため気兼ねがあるだろうというのがその理由のひとつではあるが、坐禅は習いごとではないため「お気持ち」で、オンラインクラスは身銭を切ってしっかり学んでいただきたいと考えてもいる。ご理解いただければ幸いです。

いろいろ書き綴りましたが、とどのつまり「お気持ち」は言葉どおりの「お気持ち」でよいということです。

もし私の真意が伝わって、その人の苦が楽になっていくならば、それが私にとって最高のお布施です。


安居(修行)していたお寺と飼い猫たち。

クロちゃん、ミケちゃん、ポーちゃん