しばらくシャバを離れている間に、楽しい東洋思想の本が出版されていた(今年の4月)。
鎌倉に来て数日後、雑談のなかで「自分なんてない」というフレーズとともに話題に上り、ほどなくして私の手元にやってきたのが『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』という書籍だった。
どうもこのテの(狙った)本はハスに眺めてしまう私なのだけれど、チラ読みしたら「何これ、おもしろいじゃん」となった。そのまま読み進めたいところだけど、激ムズな本に取り組んでいたので、これは気分転換用にとっておいた。
しばらくして、別の場所で、別の人からも、この本のウケがいいという話を聞いた。これは読んでおかねば話に加われぬと、東京で陰ヨガと茶話会のあった日の朝、電車の中で読んでいた。
なるほどね。俗な次元に落としての喩えがうまいので、イメージがつかみやすい。無駄な知識をすっとばして落とし所を突いているので、思想のズバリそのものにアクセスしやすい。これはウケるな。......と読みすすめていると、びっくり。前夜、なぜか考え事をしすぎてよく眠れなかったのだが、そのとき考えてたことがまんま書いてあるではないか。部屋においてあったので、無意識に透視していたのかな(そんなわけないだろ)。
何が書いてあったかの前に、ショーゲキの告白をしておく。
僧堂での修行中、私は20代のワタシになっていた。
は? 20代? あなたずいぶん前に赤いちゃんちゃんこもらってませんでしたか?
と思ったあなた、正解です。
僧堂では年齢や経歴などに関係なく、新しく入ってきた人がいちばん下のポジションになる。将軍といわれる私だけにこんな機会はめったにないと、思う存分下っ端になりきって生活していたら、なんだかホントに20代のときの、ちょっとセンチメンタルで悩める乙女のちゃみこさんに戻ってしまったのだった。
詳細は省くけれど、なかなか貴重な体験だった。「なんにもわからない新入りです」という顔でいたら、ほんとに新卒で僧堂に来た人になりきったんだね。
ということは、年齢とか性格とかフィクションなのではないか?
人は結婚するから夫や妻になるし、子どもが生まれるから母や父になる。たぶんみんな無意識のうちに、社会的に与えられたポジションに「なる」のだろう。すなわち、自分のアイデンティティ的なものも含めて、すべてはキャスティングされたポジションやキャラクターを演じているのではないか。
ということを夜中に考えていた数時間後、この本で似たようなことが書いてあるのを発見したのだ。
たとえば、「兄と弟は同時に生まれる」という小見出しがある(いま手元に本がないのでうろ覚えだけど)。どういうことかというと、二人目が生まれた瞬間に上の子が「兄」、生まれた赤ちゃんは「弟」になる。つまり、絶対的な「兄」とか「弟」はなく、関係性の中で生まれるもの。これが縁起ということ。
このようにして、間違った認識によって実体のないものを絶対的な事実だと思い込んでいるのが私たちであり、その究極が自分を自分だと思っているという「無知」なのだ。
自分とか、ない。からね。でも、その自分に翻弄されて生きている自分......。私がいつも強調しているインド思想のおもしろさはココにある。
その日の茶話会では僧堂修行についてのナイスな質問がいくつも出て、20代のワタシになった話にもなり、流れでこの本の紹介もした。
ただし、「教養としての東洋哲学」というのはちょっと違う気がする。教養っていう言葉がね。取り上げている思想のラインナップ的には教養かもしれないけれど、そこまでは網羅していないし、逆にもっと「どストライク」なインパクトがある。でも営業的にはこういうネーミングも入れておけと、まあそういうことでしょう。それと、時事ネタ使っているため、賞味期限はそう長くない系の本なので読むならお早めに。
もし、自分とかないってどーゆーことよ!? と興味をもったり、そういった話がおもしろく感じられるのなら、きっと、なんなんのオンラインクラスにハマるでしょう。オンラインクラスでは、この本と同様、俗に落とし込んでイメージしやすい形で話しているので、堅苦しいお話が好きな方には向かないかもしれません。そして、もちろん予備知識などは必要ないですし、常識はむしろ捨ててきていただくと、なおいっそう楽しめるかと思います。
なお、ヨガにも仏教にも無縁で......という方には「原始仏典」のクラスがイチオシです。
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さて、またまた余談ながら「自分なんてない」と言えば、瞬間的に池田晶子の言葉を思い出す。
旧ブログの中ではときどき読まれている記事のひとつだけど、いま読み返してもこれらの言葉にスカッとして、拍手したくなる。この秋、旅先の図書館で未読の池田晶子本を見つけては読み耽り、その鋭さに感服したり、だから夭折されたのかなと思ったりしていた。今ご存命だったら、どのようなことを書いているだろうか。
ときどき思い出しては古いブログを読み直すことがあるけれど、あのころは日々いろんな発見(気づき)があったなあと思う。今も禅の初心者としてあれもこれも勉強したいと意欲だけはマンマンではあるけれど、得度して現場を見てしまったせいか、新鮮味が失われ、感性も鈍ったような気がしてならない。
それでも、好きな老師の言葉にときめきながら、サンスクリットと格闘する毎日。脳が疲れた頃合いに、江ノ島目指してチャリっと出発。
が......