なんなん三昧

旧「CHAZEN三昧」からタイトル変えました

軌道修正

CHAZENを閉めてお山に移住してから4年が過ぎました。

その日のあれこれが目に焼き付いていて、つい昨日のように思い出される反面、その後のあまりの激動の変化ゆえか、もう10年くらい経ったような気もします。

CHAZENが一風変わったマイソールスタイルの練習所であったこともあり(道場と呼んでいました)、練習場所を失った練習生たちは他のマイソールスタジオに移ることをせず、近くのレンタルスペースで自主練を続けることになりました。仏道に入る前は、オンラインと定期的に東京に行く形で練習を見ていたのですが、修行中も下りてきてからも、みんなが仲良く練習を続けていることに感激したものです。

その4年間借りていたスペースが9月でクローズすることになり、存続危機が目の前に迫りました。が、やっぱりみんなで練習したいよねってことで、元のCHAZENのすぐそばに(窓から見える)、まだ新しく、広さも設備も十分な練習場所が見つかってひと安心です。

子を捨てて出て行った親ながら、子どもらが困難を乗り越えて仲良く練習しているのを木陰からこっそり眺めるような気持ちで見守っていました。

お山に移住して、思いがけず仏道へシフトすることになったとき、これからはアシュタンガとかヨガのくくりを外して、誰もが仲間になれるようなサンガにしたいと思って、名前をCHAZENから「なんなん」にしました。けれども、どうしてもCHAZENのイメージが強く残っていて「出来上がった(入りにくい)コミュニティ」のように感じられてしまうようです。

それもそのはずでした。私自身がいまだにCHAZENに依りかかって生きているのですから。愛するものに執着してしまうというアレです。生まれ変わったはずなのに、生前のままじゃないですか!

そんなわけで、ここらで自分に喝を入れて軌道を修正しようと思い、先日の坐禅会で決意表明したところです。といっても、修正が必要なのは私自身にかかわることなので、「なんなん」の活動はそのままです。

ちなみに、

「なんなん」は入会金も入会規則もなく、袖擦りあった人なら誰でもがメンバーという会です。その場にいる人たちが手を繋いで輪をつくったら、それが「なんなん」になるという会です。なんにもならん坐禅をする、なんでもない会ともいえます。

そもそも私は組織というものが性に合わないタチです。何か形のようなものを作ると、必ずそこに淀みができてきますから、流動的に形を変えながら、その場に集まった人たちと安らぎのある時間がもてたらいいと思っています。

そんなゆるいサンガでよかったら、ぜひ仲間になってください。
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富士と夕暮れ

観音さまと歩く瞑想会

夏の3ヶ月間お休みしていた観音部の遠足会ですが、10月の観音様の日から再開されました。

今回は、ご開帳となっている杉本寺のご本尊を目指しました。杉本寺は、2月の遠足会でも訪れております。ご本尊は秘仏で、本堂のなかの小さなスペースから金網越しに拝む体になっていて、でも中が暗くて見えず、ご開帳の折には......と思っていたところ、1年もたたないうちにその機会が巡ってきたというわけです。

本堂のなかには十一体もの仏像が祀られている


こちらのご本尊は三体の十一面観世音さま(うち二体が重文)です。写真撮影禁止なので、お見せできないのが残念です。

ご開帳の日は土日に限定されており、7人ひと組が観音さまの前に案内され、腰掛けて和尚さんから各仏像の説明を受けた後に、ご祈祷いただくというコース設定になっています。朝イチで行ったためか、さほど混んではおらず、すぐに案内されました。

やはり、ご本尊は際立っていました。気になっていたことがひとつクリアになったようで満足です。ただ、固定された位置からしか眺められないのが残念ではありました。

杉本寺は鎌倉の中でも古くて、茅葺き屋根と苔に象徴される趣深いお寺です。

美しい......


実は2月のときに、帰ってきてから杉本寺でいただいた栞を見て驚きました。当山奉安仏として「運慶作」と書いてある仏像が三体もあるではないですか!

私はいったいどんな「ふし穴の目」で拝観してきたのだろうと思って、その後ひとりでもう一度拝観しに行きました。ところが、素人が見てもそのようには見えません......。調べてみると、どうやら「伝」のようです。つまり、お寺には運慶作と伝わっているけれども、実際にはそれよりずっと後代に作られたものであろうというのが通説のようです(栞には「伝」の文字が入っておらず、「運慶作」とだけ書いてあります)。

世の中に観音像は数多くありますが、私が「遠くまで出かけてでもお目にかかりたい!」と思うものは、実はそれほど多くはありません。どうしてだろうとなんとなく思っていたら、昨日読んでいた白洲正子の本に答えが書いてありました。

ここに揚げた六十三体のうち、円空だけははるかに時代がはなれている。その何百年かの空白の時代にも、観音像は数多く作られたに違いないが、いずれも形式的な魂のぬけたものばかりである。信仰のないところに名作は生れない。

白洲正子「観音巡礼」 毎日新聞社 より


さすがは目利きの正子さんです。自分の足で歩いて、自分の目で見て、肌で感じた経験が豊富だからこその心眼ともいえます。

「形式的な魂のぬけたもの」は、世の中には多いです。むしろそれで社会が成り立っているような気がします。

仏師の力はもとより、その観音さまをどのように祀り、どのように拝んできたかという歴史が、ただの彫刻を、ほんものの観世音菩薩にするのだろうと思います。5月に湖北で拝観してきたもろもろの仏像は、その意味でまさしくほんものの観音さまになった仏像でした。観音さまに魂を入れるのは、儀式的なものではなく、その観音さまを信仰する人々の心なのでしょう。


さて、杉本寺を下りてから「天園ハイキングコース」を歩いて北鎌倉に出るというコース設定をしました。登山口はいくつかあるのですが、明王院の近くから入ることにしました。せっかくなので明王院にもお参りしていきます。

静かな、落ち着いたお寺です。ご本尊が不動明王らしいので(それで明王院か)、書いてあった不動明王真言を一同でお唱えしました。

こちらも茅葺き屋根で、趣ある佇まい


明王院の隣からハイキングコースに入ると、いきなり急勾配の登りです。ハイキングコースはいくつもの分岐がありますが、ここはGoogleマップにも出ていないマイナーな登山口なので、われわれ以外には誰も歩いていません。

毎度のことですが、ワタシ的にはフツーの散歩道が、都会人の参加者たちにとってはすごい山道に感じられるらしく、これがハイキングコース? とか、これってけもの道じゃない? とか、とりあえず驚かれます。

そうは言いながらも、みなさん楽しそうに歩いていました。景色も開けない山道なので、黙々と足を運びます。

急登は最初だけで、あとは比較的ゆるやか


ある地点からハイカーがどんどん増えて、すれ違うために道を譲り合うことが多くなりました。多くの人が北鎌倉方面から登ってきて鎌倉へ降りるようで、それがスタンダードだとすると、われわれは「逆打ち」です。ツアーグループもいて、手軽な登山が楽しめるのが人気の天園ハイキングコースです。

大平山の頂上でお昼にしました。今回は、鎌倉駅から杉本寺に行く途中に魅惑的なパン屋さん「モン ペシェ ミニョン FUJIMORI」があるので、そこに寄ってランチを調達。歩いたあと、外でいただくお弁当は最高です。他愛もないおしゃべりをして笑い、建長寺を目指して再び歩きます。

建長寺が近くなったころに、見晴らしのよい場所が現れます。その昔、足繁く通った鎌倉の海をみると、ある種のなつかしさが込み上げます。

八幡宮からまっすぐ伸びた道が海へとつながる


その先はもう建長寺の敷地です。建長寺はだいぶ高いところまであり、観光も寺院も歩きも楽しめるお寺です。建長寺を上から拝観していきます。

法堂には大きな千手観音さまが


観音遠足なのに、迂闊にも建長寺にいらっしゃる観音さまのことを忘れておりました。メジャーすぎてわかった気になっていたという......。

ともあれ、お天気に恵まれて、気持ちのよい遠足日和でした。

ゴルフ場みたいな庭


しかし、日差しの強い、暑い日だったので喉がカラカラ。近くのカフェに入ってひと休みして、まだ15時すぎなので、東慶寺で水月観音さまを拝んでフィニッシュ......のつもりが、なんと水月観音さまの拝観は15時まででした。お茶してなければ間に合ったのに。

それでも、たいへんすがすがしい気分の残る観音遠足会でした。観音さまに会えたからでしょうか。無駄なおしゃべりをやめて、黙々とただひたすら歩いたからでしょうか。そして、心地よい疲労感を全員で共有したからでしょうか。

よくわかりませんが、この日、この遠足会に、なにか特別なエネルギーが出ていたのを感じました。そうして、そのエネルギーがまた来月結実しそうな成り行きです。

(一部の写真は参加者撮影のものを提供いただきました)

11月の坐禅会@文京シビックセンター

先日の坐禅会では、ウォーミングアップとして、仏典クラスで読んだお釈迦さまの瞑想法の一部を実践してみました。ヨガクラスのようなガイドつき瞑想のあとは、ゆるやかにモードが切り替わって「なにもしない坐禅」に入りやすいような気がしました。只管打坐ならぬ弛緩打坐かもしれません......。

11月も「心の断捨離」である坐禅の時間を一緒に過ごしましょう。
まったく初めての方からご参加いただけます。


定例文京坐禅会

日時:11月1日(日)9:00~12:00
会場:文京シビックセンター 3F和室(後楽園駅・春日駅から徒歩1分)

  • 3Fにある和室です。
  • 3Fは茶器がないため、マイカップ(マイボトル)をご持参ください。
  • お経本をお持ちでない方には、こちらでご用意します。

内容:ウォーミングアップ/坐禅/読経/禅のお話/茶話会

  • ゆるっとした動きやすい服装でどうぞ(着替えできます)
  • 裸足になります(スカートやストッキングの場合はお着替えください)
  • 坐禅が初めての方にもていねいにガイドいたします

前日までに「なんなん」までお申し込みください。
samgha7676@gmail.com

かわいい参禅者がやってきた

仏道を歩こう

夏の間、引きこもっていたら、引きこもるのが楽しすぎて、外に出かけるのが面倒に感じられるようになってしまった。ひとつのことを始めると、次から次へと興味が湧いてきて、気分転換に外に出る時間が惜しくなる。

ずっとゲームをしていて学校に行きたくなくなる子どもの気分はこんなだろうか? 今の時代は「登校拒否」という選択肢があるが、昔はその選択肢はなかった。人は環境によって作られるものだから、今の時代に自分が子どもだったらどうなっていただろうと思ったりする。

先日書いたことの延長で言えば、お釈迦さまがもしインドではなくギリシャに生まれていたら、仏教は生まれなかっただろう。ギリシャ哲学の影響を受けて、優れた思想をうみだしたかもしれないけれど、それは仏教思想とは違うものになっただろう。

お寺に生まれたわけではなく、禅を志した若いお坊さんたちを見ていると、なんて頭がいいんだと思う。禅を志した時点でもう大方は悟っているようなものだ。そして、マジョリティではないにせよ、現代はそれを認めて評価する世の中の風潮もある。世の中に入る前に世の中の虚構を嗅ぎ取ることのできた人は、若いうちに仏道に目を向けて、仏道を歩むことを選択する。

どうやら、いまだに、出家に「絶望した人の行く末」のようなイメージをもつ人が多いのだけれど、絶望しただけで禅の修行はできないだろう。仏道は、行き詰まった思考を根底から覆すことだ。マインドフルネスで心身をととのえるのとは違う。

このまま進んでもいずれ壁に当たる。どんなに努力しようが、うまいこと行こうが、いずれは行き詰まる。そういうことに気づいた人が目指べき道が仏道であり、それを徹底するために出家という道がある。

要は捨てられるかどうか。
「もっともっと」という思考のままで瞑想(ヨガ、マインドフルネス)して、ザワザワした心をなだめていても、ただの一時しのぎにすぎない。

お釈迦さまの時代もAIの脅威にされされている現代も、究極は同じというのがすごい。こういう考えはバブリー時代なら「ネクラ」という一言で一笑に付されていただろう。うかれているというのはそういうことだ。うかれている時代には、うかれていることが当たり前だから、自分がうかれているという自覚がない。そういう意味では、明るい未来が描けない今は、無明(真実に無知であること)に気づける「いい時代」なのかもしれない。

それでも、その「気づける人」はほんのわずか。実際に仏道を歩ける人はもっとわずか。だからこそ、その希少なご縁に与った人は、迷うことなくその道を歩くべきだと思う。

高度成長の「残念な時代」に育った私は、仏道に入るのが遅くなってしまったけれど、まだ手遅れではない。仏道のスタートは何歳でも遅すぎることはないけれど、早ければ早い方がいい。語学と同じで、若いうちからその環境に馴染めば馴染むほど、それがスタンダードになる。

いま自分が毎日していることは、自分自身のOSをお釈迦さまスタンダードにアップデートする作業だと思っている。毎日バグを発見しては修正を試みてアップデートを繰り返している。怠れば、OSはシャバ仕様に逆戻りしてしまうから、ただ毎日同じ習慣を行うことで自分を洗脳している。

楽しいゲームから離れがたくなるように、毎日の習慣を変えることは「面倒くさい」と思わせるものだけれど、今だけ楽しいか、この先ずっと楽しいか、答えは明白だ。


夏も終わり雨季も終わった。「書を捨てよ、山に出よう」というわけで、逗子ブラ散歩の日々。

ブランコの間に江ノ島の図

仏教へのロードマップ

仏教者となっても「ヨーガ・スートラ」の講義を続けているのは、4年前まではヨガ教師であったがゆえであり、「サーンキヤ・カーリカー」の講義にまで発展したのは、「ヨーガ・スートラ」の理解を促すためである。

が、それだけではない。と、最近思うようになってきた。

一般論として、学者を除いて仏教を学んでいる人がヒンドゥー教の正統学派について知る必要はないと考えられていると思う。仏教の文脈のなかでは「外道」という名のもとにバッサリ切り落とされているからだ。

お釈迦さまの教えは、お釈迦さまオリジナルであり、それらと一緒に並べて考えたらいかんぜよ。

と、日本の仏教界隈では、なんとなくそのような空気を感じるが、元をただせば共有しているものは多いはず。

お釈迦さまがオリジナルなのはもちろんそうであるし、その教えがヒンドゥー教的な性質のものだったら、私は決してその末弟子に加わることはなかった。しかし、どんなにオリジナルであっても、大元となる土台の考えには共通するものがあるはずだ。同じ文化圏では無意識のうちに共有している認識が多いから、まったく影響を受けないわけにはいかない。

そもそも、お釈迦さまは最初にヨーガの修行をされている。ヨーガの修行をされて、それを難なくクリアされてのちに、それでは真実に至らないと気づいたから仏教が生まれたのである。

要するに、「これは違う」と思わせるナニカがあったから、新しいものが生まれたということ。新製品が生まれる背景には、不便だったり、コストがかかりすぎるなど、改善を要する現状の問題があるように、それではないナニカを求めるところに革新的な物や思想が生まれる。

革命が起こるためには、それ以前に「それではない!」という否定の事象が必要である。肯定だけだったり、「なんか違うけど、まいいか」と思うなら革命は起こらない。ただの偶然で起こったものは革命とは呼ばれない。

大乗仏教が生まれたのは、部派仏教に改善の余地があったからであるのと同様に、サーンキヤの思想が生まれるためには、ウパニシャッドの哲学に矛盾点と思われるものがあったからだし、ウパニシャッドが生まれたのはヴェーダに問題を見い出したからである。

以前のものを踏み台にできるから、より高いところに行ける。ということは、踏み台をたどることによって、なぜそのような思想が生まれたのかがわかり、核心への理解が深まる。

つまり、ギーターだの、ヨーガ・スートラだの、サーンキヤだのをたっぷり味わっておいて、そこから最終的に仏教哲学へ跳んだら、間違いなくその核の部分がつかめるし、学びをより一層楽しめると思うのだ。ハヌマーンがランカー島へ大跳躍するように......。

実を言うと、少し前までこんなことは考えていなかった。数ヶ月前、半蔵門ミュージアムに行く前にみんなでランチしてたとき、「ちゃみ先生の唯識の講義が聞きたい」と言われ、お茶を吹きそうになった。「 とんでもない! それに誰が受講するんだ!」と。

それが、先日のクラスでちらっと、ほんとにただちらっと唯識について言及しただけなのに、なぜか唯識に興味津々の人たちが続々現れたので驚いた。

驚いたけれど、単純でお調子者の私はもう唯識へのルートを描き始めていた。サーンキヤ・ヨーガでしっかりベースができたら、案外すっと唯識に入れるかもしれない。そして仏典クラスもこれから大乗経典に進んでいく予定なので、両側からじわじわと寄っていけば、それほどとんでもない話ではないかもと思えてきた。仏典クラスでは、少しずつ仏教用語に馴染んでもらっているしね。

それに、何をどう勉強しても目指すところは同じ。哲学を理解すること自体が目的ではなくて、さまざまにあるアプローチ方法を知って、ではどうすればいいかを考えるだけのことである。それを知ると世界が広がって、より多くの角度からお釈迦さまの教えをとらえることができる。興味をもつこと、何が大事なのか、何をなすべきか考えることが、実践への動機づけになる。

私の使命は、受講生に仏教やインド思想の酸いも甘いも経験させておきながら、最終的には解脱させようとする「プルシャくんに尽くすプラクルティさん」のようなものである。しかも、このロードマップでは、プルシャくんとプラクルティさんにサヨナラして、プルシャくんもプラクルティさんもいない空の世界に誘うところがハイライトなのだから、やっぱり大きな飛躍にはなると思われる。

いつの日か、オセロのように最後にひっくり返されてサーンキヤ・ヨーガから仏教哲学へ切り替わるかな。その日を楽しみに、着々と準備を進めていこうとニヤニヤする私なのである。


9月の長雨以来、姿を見せなくなったねこちゃん。元気でいるかにゃー?

ねこの扱いがヘタな私も、ちゅーるがあれば最強(提供はK嬢)

オトナの教養

山田五郎さんが生前おっしゃっていた。「AIには教養がない」と。

しょせんは計算機なので、AであればBを、CであればDをという対応は得意でも、人間の経験に裏打ちされた洞察や、深い思いやりには行き届かないということなのだと思う。逆にAIにそれができちゃったら、ほんとにオソロシイことになる。

「教養がない」というのはそもそも人間に対して言うことであるけれど、それはよく使われるように単に知識が貧困という意味ではない。知識がどれだけ豊富でも、レスポンスがどれだけ速くても、それは教養ではない。さまざまなことを見たり聞いたり体験して、失敗して成功した経験が豊かであればそれだけの「教養」ができてくるのだと思う。

「〜してはいけません」と言われて、ただそのとおりにしているだけの優等生に教養はない。なぜそれがいけないのか、考える前に身体で理解できることが「オトナの教養」なのだ。

教養というのは字義どおり、「教えを養う」こと。つまり、自分の頭で考え、身体で感じて、育てていくものだ。だから、コドモはまず先に教養を身につけて、十分にオトナになったらAIを使うのがよろしい。

毎日AIを使いながら、そんなことを考える。

小学生のとき、そろばん塾に行ってみたけど1日で落ちこぼれになり、親に「これからは計算機の時代だから、そろばんはできなくてもいい」と宣言してそれを正当化した私は、やっぱり計算機(パソコン)を頼りに生きている。

AIは電卓、あるいは洗濯機だと思って使いこなすとたいへん使い勝手がよろしい。

サンスクリット語はある意味で数学的な言語である。それこそ機械であるAIが得意とする分野であるから、こちらからいろいろ注文を出したら、ものすごく手間が省けて、挫折せずに勉強を進めることができて助かっている。

これまでずいぶん格闘してきたオトナだからズルしてもよいのだ。

印刷のクオリティが悪いインド製の辞書を、眉間に皺寄せながらめくり続けたり、うんうん唸りながら、あちこちの本を参照してきた経験があるからこそ、この、一足飛びの便利さを享受する資格がある(と、勝手に思っている)。

そして、オトナはすべてをAIに頼らない。生きた人間から教わることの重要性を身をもって知っているからだ。

AIを併用してサクサク理解できるようになったら、やっぱりヒトから教わりたくなり、生きた先生の講義を受けている。しかし、先端的なハイブリッド体制で臨んでみても、やっぱり脳疲労の激しい言語であるのは変わらないから、これくらいがちょうどよい塩梅なのだと思う。

AIに頼る社会では、自分で考える力が衰えて、教養はどんどんなくなっていく一方だ。車があると歩かなくなるのと同じで、筋肉が衰えるように脳力も衰える。

また、教養というのは、想像力のことである。共感力のことでもある。AIに聞いた答えには、生きてきた経験が乗ってこない。学習はしても、サンスカーラに刻まれる無意識の領域のようなものがないからだ。ひとことの思いやりの言葉には、百億の体験に裏打ちされた、無意識のナニカが含まれているものだ。それがわかるからこそ、その言葉に重みが出てくる。

そもそも、人生には正解などない。何が正解なのだろうかと考えながら生きていくのが人生だ。それでも正解を求めてしまう、そういう性分をあなたも私も知っているから、そこに共感が生まれる。


9月の仏典クラスのあとで、参加者のAさんからメッセージが届いた。

仏典クラスの後、とても幸せな気持ちになりました。
いつも座学の後に感じることではありますが、今日は特に深く感じました。

それを読んだとき、その幸せな気持ちが伝わってきて、こちらが幸せな気持ちになった。

さらに、Bさんが「Aさんのコメントを読んで幸せな気持ちになりました」と言ってメッセージを送ってくれた。おそらく同じ気持ちになった人がほかにもいるだろう。

お釈迦さまのことばで得られる幸福感は、ことばにも数値にも表せないけれど、同じクオリアでもって伝わっていく。そのリレーをつなげていきたくて、オンラインクラスや坐禅会をしているのだろうね。

別名「オトナの教養講座」はこちら。

chazen.hatenablog.com

台風一過の朝

10月の坐禅会@文京シビックセンター

9月21日の坐禅会は、台風接近により中止とさせていただきました。
気を取り直して、10月にお待ちしております。


定例文京坐禅会

日時:10月12日(月・祝)9:00~12:00
会場:文京シビックセンター 4F和室(後楽園駅・春日駅から徒歩1分)

  • 4Fの広いお部屋です! 久しぶりの4Fなので、ゆったり身体を動かしてウォームアップしましょう。
  • 4Fなので、マイカップ不要です。

内容:身体ほぐし/坐禅/禅のお話と読経/茶話会

  • ゆるっとした動きやすい服装でどうぞ(着替えできます)
  • 裸足になります(スカートやストッキングはNG)
  • 坐禅が初めての方にもていねいにガイドいたします

前日までに「なんなん」までお申し込みください。
samgha7676@gmail.com

永平寺のエレベーター脇に貼ってあった良寛和尚のことば