夏の間、引きこもりを満喫していた。外に出なくても、人に会わなくても平気なことが検証されたが、たぶんプロジェクト(仏典参究)を作って、それにどハマりしてたから、あっというまに時間が過ぎてしまっただけだと思う。
動かしていたのは手ばかりで(腱鞘炎になりそう)、気分転換がYouTubeという超不健康な生活だったのだが、あるとき、キャニオニングの動画が出てきて釘付けになった。
2年ほど前、甲斐駒ヶ岳のふもとにある尾白川渓谷で毎週山歩きをしていたとき、滝に飛び込んだり滝滑りをしている人たちを見て気になっていたのだったが(それがキャニオニングと知ったのはその動画を見てから)、まさにその尾白川渓谷での動画だった。
それで、当時そのことを書いた記事を拾ってきて眺めていたら、またもや、たまらなくお山に行きたくなった。やっぱりお山が恋しくなってしまうのはいつものことだが、実はこの渓谷歩きが出家する要因を作り出していたことを思い出したからでもある。
先日書いたように、安泰寺で得度式に遭遇するまでは出家など考えたこともなかった。それでいて、お山での暮らしは、毎日坐禅して経を誦み、「正法眼蔵」について学ぶ修行の日々であった。
「正法眼蔵」は難解であるため、頭の中がナゾだらけになる(もちろん今でも)。ゆえに、道元禅師が考えていたことについて、あれかこれかと思いを巡らせていた。ときどき出くわす道元禅師の美しい文章に魅せられて、ますます深く理解したいと思って坐禅する毎日でもあった。(以下、意味不明な言葉が頻出しますが「スルー力」で対応願います)
ある日のこと。朝のうちに尾白川渓谷入りした。
ここにはいくつもの美しい滝があるのだが、朝日の当たる時間に虹が出る「旭滝」という滝があるので、そこに寄ることにした。登山道から少し外れていて、大きな岩を降りたり上ったりするのと、滑りやすい岩の上を歩かないと見られないので、ふだんは通り過ぎる滝だ。
思った通り、バッチリ虹が見えた。光の入る方向、滝の水飛沫の加減によって虹が変化するので、ベストな場所で写真を撮ろうと思って、ツルツルの岩の上を慎重に移動するうちにハッとした。
「虹が現成してる!」
その瞬間、「縁起」というものがストンと落ちてきた。文字でもなく、論理でもなく、目の前の現象が教えてくれていた。

そもそも甲斐駒ヶ岳は山岳信仰の山で、その昔は行者さんがあちこちで修行していたところだけに「氣」も違っている。必ず下の神社でお参りしてから入っていたし、鎖場とかコワイところもあるから、めったに人にも遭わず、瞑想的な歩きができるのも気に入っていた。
「青山常運歩」について思いを巡らせながら歩くこの「行」は、私にとってまさに「山水経」行であった。
「大地有情 同時成道ス」が、肌をそっと撫でていったような感覚を得たりしたのも、この「行」の最中だった。
それは「山水三昧」とでも呼ぶ境地でもあった。
山を歩くのではなく、山と歩く。
すべてが溶け合って調和していたし、すべてを受容し、また受容されていた。
たとえて言うなら、自分という器が尾白川のように澄んだ水で満たされ、あふれていくような感じがあって、ひとりで味わうのではなく、分かち合いたくなるような心境を味わった。それが、出家して菩薩行をしたいと思うベースになったような気がする。
移住してたった1年ほどしか住まなかったけれど、なんとも濃い1年であったし、それらのすべてが今に繋がっていたことを考えると、すばらしいお膳立てだったと今は思う。
そう思って出家したはいいが現実は厳しく、目の前のことに必死で、あふれた水を分かち合うどころか、水がどんどん枯渇していくようだ。そんな今だからこそ、山水三昧の日々を思い出して、気持ちだけはほんの少し潤いを取り戻したようにも思える。
枯渇しそうになったら、この原点に戻ることにしよう。そして、暑いのが終わったら、山に行こう。どんどん歩こう。
美しい滝と、キャニオニング目撃時の写真はこちらから。






