我を捨てる
文献派なので、中医学や漢方の本を片っ端から借りてきて目を通しています。これはと思う本がいくつか見つかりましたが、そのうちの一冊が先日読んだ『漢方水先案内』。
著者の津田篤太郎という人も知らないので何の先入観も期待もなく読んでいたのですが、徐々になんかいいかもと思って、途中からは居住まいを正して読みました。筆致からおだやかで落ち着いた年配者をイメージしたら、私よりずっと若い。あとでわかったのですが、この先生いつも読んでいる毎日新聞の「漢方ことはじめ」という連載を執筆している方でした。
西洋医学を基本にしながらも漢方を使って難病に取り組んでいる方なのですが、おっしゃっていることが私には何かとしっくりくるのです。この先生の診察を受けてみたくなりました。西洋医でもいい先生はたくさんいることはわかっているのです。でも、つい否定的に考えてしまう。そんな自分の傾向を改めようと思わせるほどに、この先生は西洋医学と東洋医学のよさをいい塩梅で認識しておられます。
その「塩梅」というのは、たとえばこんな感じです(うまくいえないけれど)。
スピリチャルを認めながらもそこに走らず、科学をよりどころにした医療を大事にしている一方で、科学では証明できない「見えない力」の大きさも大事にしている。
そのあたりがたぶん私にとって「いい湯加減」なのでしょう。
そして、何より真摯な態度を感じます。
途中からある鍼灸師の言説について述べられます。指圧などの手技というのはベテランになるほどに「〜する」のではなく「なっている」ものだという話のなかで、「能動性の放棄」と言っているその言葉が強く私の胸に刻まれました。
これ、禅の境地です。
doingではなくbeingであること、あるいはBeTubeが只管打坐の極意です。
そして、この「能動性」というのがすなわち「我」であり、「能動性の放棄」とは「我を捨てる」ということであるとも書いてあります。東洋医学はすなわち東洋思想なのです。
なぜ「能動性の放棄」という言葉が刺さったかといえば、まさに今私がぼんやりと考えていたことだったからでした。最近、思うとおりにことが運ばない出来事が連続でありまして、そのときに感情が波立つのを感じたのです。その波立ちを見つめてみたとき、自分の思ったとおりにことを運ぼうという「我」の存在に気づきました。
さらに考えると、あれもこれも「我」です。どんな自分の行動もガガガガガガーっと「我」に動かされてばかりです。
キャンプ場のトイレの蛍光灯に群がる蛾のように、自分のまわりに「我」がまとわりついているのです。自分を光らせようと思えば思うほど、この「我」がたかってきます。
エゴというものは、自分が気づいていないときこそ全開になっているものだと改めて思った次第で......。まずは「我」が自然に離れるように灯りを消して、謙虚になることから始めたいと思います。
ともあれ、東洋医学を学ぶモチベーションはますますアップして、
シロツメクサの花が咲いたらさあ行こう ラスカル♪
と鼻歌歌いながら、犬にラスカルと呼びかけながら、楽しく毎日勉強しています。