CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

ヨガと禅の間

日本の学者先生が書かれたインド思想方面の本を読んでいると、必ずや仏教との関連に言及されるのが興味深い。

ウパニシャッドに関する本に、「自己(アートマン)が不生不滅、常住不変であるというウパニシャッドの記述に関して、それがお釈迦様の説いた非我説に引き継がれ、さらにサーンキャの二元論になった」ということが書いてあった。

おもしろいと思うのは、ヒンドゥー教徒からするとヴェーダを経典としない仏教は外道と言われ、六派哲学などの仲間にも入れないのであるけれど、サーンキャつまり「ヨーガ・スートラ」の思想とつながっているということ。

ヴェーダを経典としない仏教であってもそこにはヴェーダの神様が多数登場するし、思想の大元をたどればウパニシャッドに端を発するのだ。

その箇所をノートに書き留めておこうと開いたら、ノートにはまた興味深いことがメモしてあった。

いかなる楽しみを奪われたときにも得られる安楽の境地


中村元先生の著書にあった「ヨガと禅」という項目から書き留めておいたものなのだが、坐禅で得られる、あるいは目指す境地についての記述と思われる。

さらに、ヨガと禅の違いについては次のようなことがメモってある。

ヨガは修行によってある程度の神通力(超能力)が獲得されるが、禅ではそれを邪道と考え、むしろ日常で飯を食べ、茶を飲むというようなありふれた生活に偉大な神秘があると説く。


この部分を読んで大いにうなずきながら書き留めている自分の姿が想像されるが、今読んでも新鮮な、短い言葉でうまく捉えている記述だと感心する。


ルーツと目指すところを同じくして、また修行方法にも似た点があるヨガと禅であるが、両方を実践していると相違点について思うことも多い。

たとえば、ヨガは手放すことを謳いながら、獲得することばかり目指すようにできているなと思う。ハタヨガはテクニックによってある境地に達するものであるから、常に技術の習得が第一義である。そして、テクニックを追求するあまり、エゴのかたまりになることが多い。アシュタンガヨガのアーサナへの執着は、そのわかりやすい例かもしれない。

それゆえか、何十年も実践していながら、最終的に間違った方向へ行く指導者も多い。特にメジャーな先生が次々とスキャンダルにまみれるのは、彼らの目指すものが一般社会的な成功だったことの証左だろう。

禅は、インドの仏教が中国から日本に伝わり、矛盾や無駄を削ぎ落としながら日本らしく洗練されていったものだから、日本文化を美しいと思う私にはとてもしっくりくる。私のまわりにいる禅の先生方は人間としても尊敬できるし、お釈迦様の教え自体がたいへんよくできていると思う。

ただし、ヨガの身体的な効果は禅には決して見いだせないものであるほか、禅は入り口が広くて誰でもできる割に、出家でもしない限り継続して実践することが難しいように思う。お遊びの要素がなさすぎて、志の高い人でないとなかなか続けられない。

禅は洗練されているだけに、高尚すぎるのかもしれない。
そして理解することが難しいと思われているのかもしれない。

それでCHAZENでおすすめしたいのは、ヨガからスタートして禅につなげる道だ。
楽しくて、毎日がすがすがしくなり、またやりたくなるヨガの練習からスタートして何年か親しんだあとで、徐々に獲得する練習から獲得しない練習に移行していけたら理想的なのではないかなと。

もちろん、最初から禅で行ける人は並行していくのがいいし、ヨガだけでいいって人に無理に禅を勧めはしない。

ただ、CHAZENはやっぱり両方を取り入れて相互補完的なプラクティスを理想としたい。
それで考えたことを明日また書きます。

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森chaの庭に落ちていたカリンの実、香りがいい