ようやく夏の不調から脱し、作務でリハビリに励んでいるが、体力の衰えが著しくてゾッとする。ずっと家の中に引きこもって、アタマ以外を動かさずに過ごしていたからだ。
アタマのほうはまた、いろんなものを詰め込みすぎて、キッチキチに冷凍食品を入れた冷凍庫みたいになっている。もはや下のほうに何を入れたのか忘れてるし、何かを取り出そうとするたびに全部出しては「あれ?何出そうとしてたんだっけ?」みたいなカオスになっている。
こないだAIの登場でサンスクリットもやらなくていいって書いたばかりなのに、漢文に訳された仏典では心許なくて、やっぱりサンスクリットの原文を書き写すところから始めてしまうのは、どういうわけなのだろう。万年初心者なので、向上というよりは忘れないための無駄な抵抗なのかもしれない。
複数の仏教経典だけでも無謀なのに、印哲クラスを始めたのでさまざまなバラモン系学派の文献も読み込んでいて混沌はさらに進む。しかも、そうやってあちこちに手を伸ばすと必然的にいろいろな情報が目に入ってくるので、そこから派生して要らぬ方向に考えが飛んでいってとりとめもなくなるのだ。
今日は、とある老師のことを知りたくてググっていた。ところが、伝説的な人のためかまったく引っかかってこず、代わりに全然関係ない仏教学者のことが出てきた。その人は、数年前に仏教学界を震撼させた論争およびハラスメント事件の当事者であった。起きたことくらいは知っていたけれど、その後忘れていた。
さらに、その当事者と私の知っているお坊さんとのネット上の論争も出てきた。めっちゃエグい。が、興味深いことも書いてあったので引き込まれるように読んだ(どんどん本題から離れていく)。で、例の論争についての詳細について改めて読んだら、そのエグい発言をしている人がアカハラされている側の人だったのでちょっと意外に思った。じゃ、アカハラしたほうはどんな人よ?とググって出てきた写真を見たら、なんとなくどこかで見たことある人のような......。
その後、仕事に戻り、今度の浦安WSのテーマである īśvarapraṇidhānaについて資料を見ていた。もう話し尽くしたようなテーマなのに、いろいろな再発見があってまたもやドーパミンが出てきた。まずい。またマニアックな話になってしまうではないか。
ちょっと落ち着こうとトイレに行って座ったら、急に思い出した。
アカハラした教授は以前オンラインで受講した「知の未来を探究する」というセミナーの講師だった人じゃないの。仏教学と物理学のコラボ企画だったのだけれど、私が苦手なはずの物理学のお話のほうが数十倍も面白かったので、仏教学のセンセイの名前は忘れていた。あの人がアカハラを? などとつい思ってしまうけれど、そんなときこそ、四無量心の「捨」を発揮すべき。
そういえば、昨日たまたま読んでいた本のなかに四無量心のことがかなり詳しく書いてあったので、次のクラスで話すべくそれを深掘りしようと思っていたのに、作務で体力を消耗し(ふだんならなんでもないような仕事)、ぜんぜん頭に入ってこなかったのだった。回り回って昨日の本題に戻っている......。
そもそもは、今日読んでいた正法眼蔵のなかに、80歳になって出家した仏祖の話があった。若い者から「老耄のくせに」とディスられても怒るどころか感謝して、道を得るまでは決して体を横にして寝るまいと誓って一心に修行をしたところ、三年で悟りを得てお釈迦さまから数えて第十祖となった。よくある「盛った」話ではあるけれど、プチ老耄にとっては励まされるわーとすがすがしく思っていたのに、ついワイドショー的な脇道に入り込んでしまった。
そうして、 īśvarapraṇidhānaの資料を机の上に開きっぱなしにしたままこの話を書いている私。もはや、書くことで収集しないとどっちにも進めない。
そんなわけで、朝イチはできるだけパソコンを開かない勉強から始めている。情報をキャッチしたら念想が起こってしまうから、一点だけに意識を向ける。アシュタンガヨガのドリシティと同じだ。
妄想狂は、たとえオフラインで山の中の庵にいてもあらぬことを考えてしまうと思う。落ち着きのない子どもと同じだ。ヨガや仏道修行の習慣がなかったら、どうなっていたことやら。
