CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

PERFECT DAYS......

予定では今ごろ修行道場入りしているはずなのですが、書類的な事情で京都にて足踏み待機中です。

京都では映画を観ました。ヴィム・ヴェンダースの「PERFECT DAYS」です。この映画のことを知ったのは、まだお山にいるときでした。観なくては、とは思いつつ映画どころではない日々でしたので、いつしか忘れていたのです。それが先日葉山の坐禅会に行ったとき、久しぶりに会った人たちがこの映画がいかに強く印象に残ったかについて話しており、シャバにいる間に観ておかなければと思ったのでした。

ヴィム・ヴェンダースというだけで語りたいことが山のようにあるのですが、それを語りだすと収集がつかないので脇によけておいて(ほんとうはそれを語りたいw)。ただ彼が役所広司が演じる主人公を禅僧になぞらえたことで、先月禅僧になったばかりの自分に、禅僧とはなんであるかという命題が与えられました。ヴィム・ヴェンダースの考える禅僧が「平山」のような人であるならば、禅僧とはかくも素晴らしい存在であるかといえるのですが、今の自分はその意味においての禅僧からむしろ遠く離れたように思えるのです。

つまり、禅僧になる前の私こそ「禅僧のように」生きていたと気づいたからなのでした。

お山での暮らしはまさに<PERFECT DAYS>でありました。失って初めて気づくという愚かなパターンではありますが、あれこそが私にとっての禅僧的な毎日だったのです。

暗いうちに起きて坐禅、読経、ちょっとしたアーサナ練習から始まる朝。一汁一菜の朝ごはんを作って食べて片付けて、掃除、洗濯。講義の準備と仏教の勉強で眠くなったら、外へ出て肉体労働。週に何度かは自転車で山を下り。お寺で坐禅と朝課、そして作務。そうしてウィークリーで続けていた山歩きという禅修行。

心身のコンディションはこれまでになくPERFECTでした。まるで自分が生まれついての純粋な人間だったような気がするほど、すべてがととのっていたのです。その<PERFECT DAYS>が実現できなくなって体調を壊したのはごく自然な成り行きでもありました。ホームレスの今、土鍋で炊いたごはんと手前味噌の味噌汁の、世界一簡素で世界一ぜいたくな「うちのごはん」がたまらなく恋しいです。最高においしいものが食べられる京都にいても、あのごはんのほかに食べたいものなどないと思えるほどに。

そう、そんな失われた<PERFECT DAYS>に執着する私はまったく禅僧から遠くなっています。禅僧というものは、選り好みをしないのです。今の私は、聴きすぎて伸びてしまったカセットテープのような<IMPERFECT DAYS>を生きています。

頭を剃らずとも禅僧的に生きることは可能である。
それが私が出家得度を考えたことがなかった理由ですが、この映画を観る限り、その見解は間違っていないように思えます。ならば、なぜ私は出家得度したのでしょう。

これからの修行生活で、私がどう「禅僧らしく」変化していくのか、はたまた変化しないのか。

まだ上山もしていないのですが、下山してからの新しい<PERFECT DAYS>について考えながら、古い町家のゲストハウスに泊まってみました。

波長の合う調度品があるだけで、居心地のよさが段違い


上山までまだ時間がありそうなので、明日から数回にわたり、昨年の「コラムの再録」で、お山でのPERFECT DAYSの一部を公開します。