仏教力(コラム再録)
ストーブを焚き始めたので、薪小屋で作業をしていたら、目の前に小鳥がやってきた。そんな近くまで来て大丈夫なのかなと思うほど間近で、私に警戒することなくドラム缶の蓋にたまった水にちょこちょこと嘴をつけて飲んでいる。その仕草が愛らしくて、しばらく眺めていた。
小鳥がたくさんいて囀っているが、とびきり小さくて黒と白とグレーの模様が特徴的なその鳥はどうやらヒガラらしい。わざわざ近くまで寄ってきたそのヒガラは、なんだか私にメッセージを伝えに来たように見えた。
「生きとし生けるものすべてを、等しく慈しむのが真の愛なんだよ」
と、それを告げに来てくれた気がしたのだ。ほんとうの「愛」とは、仏教でいうところの慈悲の心であることをそのヒガラが思い出させてくれた。
愛情というのは、一般にはポジティブですばらしいものと捉えられているけれど、仏教的には苦しみをもたらす原因となるもので、愛情が濃く深くなるほどに、別れがつらくなり、ときには嫉妬を生んだり、憎しみに転じたりもする。
人でも動物でも長く一緒にいると特別な感情が生まれ、愛情がわき、愛着をもつようになる。それが私のものであるという所有の感覚を生んだり、失いたくないという愛執になる。私が苦しくつらく感じたのは、まさにその愛執ゆえ。
シューを失ったあとは、世界が一変した。数時間前までものすごいパワーで立ち働いていたのに、まったくやる気がしない。思考停止。身体だけではなく頭の中までも、次はアレをして、次はコレをしてと休むことなく段取っていたのがすべて止まった。
代わりに湧いてきたのは「なぜ私はここにいるのだろう。なんのためにここに来たのだろう」という感覚だった。まるで、何かの魔法をかけられてここに移住してきたが、その魔法が解けてしまったかのようなどんでん返しだった。
幸いだったのは、インド思想を伝えるのが私の生業であったこと。翌日から経典に触れ、講義の準備をするなかで、少しずつ自分に戻っていったように思う。
「世界が一変した」ように思ったけれど、物理的環境にはなんの変化もない。火事で家が焼けたとか、土砂に流されてしまったわけでもない。それなのにまったく違って見えるのは、私が「世界」と思っているものが、単に自分の妄想によってつくりだされたものであるからだ。そこにある樹木一本でも、景観を遮る邪魔な存在にもなれば、ときに勇気を与えてくれる神のようにもなるものだ。
私たちは無意識のうちに、<私>という存在を中心にして、あらゆることに意味付けをしているのだろう。そしてその認識によって「世界」をつくっているのだろう。その<私>ですら実体はないことにも気づかずに。
それを実感したら、自分のなすべきことがおのずとわかってくるような気がした。
生きとし生けるものすべてを慈しむ。
自然に近い暮らしはそれを間近に体験できる反面、きれいごとで済まされない現実もある。部屋に入ってくるカメムシはその都度つまんで外に出しているが、昨日はコバエのような虫がたくさん出てきて、センサーで灯る階段の照明が虫に反応して消灯されなくなり、申し訳ないけれど「死んでもらいます」と仕事人になって一掃した。合掌。
そういったリアルな現実を含めて、手足を動かしながらさまざまなことを学びなさいというのがグル(シュー)からの伝言なのかもしれない。
そんな成り行きで、これまで手つかずだった庭の手入れを始めた。家の中は相変わらず放置したままで、あの日シューが起きたら飲ませるつもりだった漢方の錠剤さえ片付けられずにいるけれど......。
先日原始仏典のクラスで、中村元先生が親しみのもてる日本語に訳してくださったという話をしたけれど、なかでもニルヴァーナを「安らぎ」という言葉にしてあるのがすばらしいと感じている。そして、修行は何か偉いものになるためではなく、この安らぎを得るためのものだというそのこと自体が私に安らぎを与えてくれる。
これら仏教の教えがあったからこそ、あのひどい苦しみから短時間のうちに抜け出すことができた。
今回のことはまさに日頃のプラクティスを試される「試合あるいは本番」であった。以前に与えられた本番の機会、すなわち骨折とその後の身体的苦痛、アーサナができなくなる苦痛はわりと優秀に切り抜けた私でも、今度ばかりはあやうく落第しかけた。対戦相手もピンからキリまで。どんな強豪が来てもしっかり立ち続けられるよう、ひたすら仏教力を磨いていこう。