CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

五蘊は空なんです

先日の体調不良がある漢方薬飲んだら即効でよくなった。たとえば鎮痛剤を飲んで痛みがスーッと引くように、モヤがさーっと晴れていくように、ポーッとしたのが取れたのだ。

体調がいいと中医学の勉強が調子よく捗って余裕ができたので、ヨーガ・スートラ第4章の日本語訳に取り組んでいる。そうしたら快調だった流れが一気に停止した。おそるべしサンスクリット語とスートラ解釈よ。難しいような気がしていた中医学が九九を覚える程度に思えるほどの破壊力だ。

あまりにも脳が完全に機能停止状態になるので、そのまま続けても効率が上がらない。そんなわけでしばらく出番のなかったプライムビデオが救世主となった。今回目に止まったのは「コタキ兄弟と四苦八苦」というテレビドラマ。

目が覚めることだけを期待して第一話を見始めたら、なんとまあオモシロイじゃないですか。

しかし、これはあくまでも眠気覚まし。ドラマにうつつを抜かしていてはスートラがますます遠ざかるだけだ。と、最初は1話ずつちびちび観ていたのだけれど、1話完結と思っていた物語に大きな仕掛けが組まれていることがわかってきた中盤以降加速して、またしても後半は一気見(30分ものだしね)。

やられたね。
私がヨガや禅に入れ込んでいる間に、シャバではこんなドラマを放送してたんだねえ(といっても昨年)。シャバもなかなかやるのう。主演の二人はまったく知らない俳優さんで、それだけにホンモノの匂いがプンプンしたし、やっぱり脚本がいいわ。視聴率よりもほんとにつくりたいものをつくった感がありありで、すべてがとんでもなくワタシ好み。

それはそうと、タイトルに四苦八苦とついているくらいだから、生老病死苦に加えて、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦などの言葉がエンディングに出てくるのだけど、それは申し訳程度のオマケで、ドラマの設定や内容に仏教色はない。そもそもがコメディなので笑いのネタ風に使われている。

......と思っていたら、後半にすごいの来た。

このドラマにもクドカンが絡んでいたのだけれど、とあるシーンで彼<レンタル親父の元締>が、同棲相手と別れて苦悩している<さっちゃん>に「苦しいですね」と静かに語りかける(以下クドカンのセリフ書き起こし)。

苦しみから逃れる方法を教えてあげましょうか?

五蘊は空なんです。実体はありません。

この肉体も、気持ちも、抱いた感情も、行いも意識も、なんでもない。

あなたという存在は、あなたがあなただと思うからあなたなのであり、誰かがあなたを認識したからあなたなんです。


般若心経の経文に書いてあること、すなわち五蘊非我について説くこのセリフ、ここだけ突然コテコテ仏教風味で、私はウケまくっていた。

というのも、この話、今度のスートラでも話そうとしてたことに関係するから。
20日のスートラクラスは「ややムズ」なサーンキヤの話をしようと思っているのだけど、あまりに想像もつかないような内容だとみんな寝てしまうので、先月ちらっと般若心経の一部を書いて来月また話すねと予告したとおり、般若心経にからめて話そうと思っていたのだ。

ちなみに、こうクドカンに言われた<さっちゃん20歳>は当然ながら「さっぱりわかりません」と言うのだけれど、オトナのCHAZEN生ならきっとわかってくれるはず。いや、わからなくてもいい。なんとなくおもしろそうだなと興味をもってもらえたら、言っていることが理解できなくても、楽しい時間になるでしょう。

仮に「激ムズ」で何言ってるかぜんぜんわからなかったとしてもせいぜい15分くらいで終わるので、目を開けて脳だけ寝てても、あるいは目を閉じて瞑想のフリをしていても大丈夫です。理解できないことはこだわらず、流しておけばいいのです。そのうちわかります。きっと。ただ「時間が必要」なだけです。

繰り返すよ。

あなたという存在は、あなたがあなただと思うからあなたなのであり、誰かがあなたを認識したからあなたなんです。


以前紹介した『からだは星からできている』では、宇宙はそれを認識する意識があるから存在するというような話があって、ゾクゾクした。

インド思想の愉しみはヨガと同様、すぐに理解できるものではなく、じっくり時間をかけてじわじわと身体に染み込んでいくことにある。

ごうんはくう、なんでしよ......

聖なる時間と空間

胃に食べ物を入れてしまったらできなくなるアシュタンガの練習とは違って、坐禅はいつでも可能だ。摂心など1日中坐っているわけだから、時間帯には関係ない。関係ないはずだけれど、できれば夜が明けないうちに坐りたい。まだ薄暗いうちにスタートして、お香が燃え尽きるころに明るくなっているのが理想だ。

今の季節は夜明けが早いし、犬が起きたらすべての時間をお犬様に捧げねばならぬのでその前に坐りたい。ところが、私が早く起きるとなぜか犬も早く起きるようになる無念......。犬の世話をひととおり終えてから坐ればいいだけの話なのだけど、そういう日常の雑事を挟むともうそこは別の空間になってしまう。

空が白んで世の中が動き始めると、空間のもつエネルギーが変化するのを感じる。そうなる前に、神聖な闇と静けさの中で、聖なる時間に包まれることが私の魂にとって何よりの浄化となる。坐禅が終わった後に夜が明けているのは、プラクティスのあとに光を見出す象徴のようでもある。

とびきりの聖なる時間のあとも、準・聖なる時間は続く。世の中が動き始めて騒がしくなるまでの時間はプラクティスに最適な時間だ。もちろん、自分に向き合う時間をもつことが大事なので、プラクティスは日中だろうが夕方や夜のどの時間に行ってもいい。それでも、やはりおすすめは早朝、CHAZENマイソールの時間帯だ。

臨時休校明けの、とある早朝に、私の役目はここを聖なる空間にしておくことなんだろうなとふと思った。よき指導者であるための諸条件を達成することよりも(それも大事だけど)、汚れのない空間にしておくことがCHAZENらしさのような気がした。実際には聖なるどころか、老犬が徘徊してたりする俗な空間なのだけど、なんだかそう確信した。

ほとんどの人は「聖」とはあまり結びつかない営利を目的としたお仕事をされているし、家族をもち、社会人として必要な日常業務とともに生活している。それだけに、早朝のひとときそこから離れて「特別な」時間をもち、自分と向き合うことは、それぞれにとって「聖なる」時間なはず。それを感じるからこそ、早起きしてまでCHAZENに来るのだと思う。

早朝5時半〜の時間帯は汚れていない聖なる時間度が高い。今お出ましになったばかりのスーリヤ様とともにプラクティスする歓びを味わわれたし。


お掃除してたら、理事長が自主練をされているのが目に入り、掃除機放り投げて激写した。

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これがシューチャナーサナBだ


しかし、聖という言葉を多用すると、とたんに安っぽくなって俗に落ちるのであまり使わないようにしよう。

蛇足ながら、4年に一度の「聖典」は、ただの金まみれの祭典であることが誰の目にも明らかになりましたしね。

ナゼナニおばさん

こないだまでの梅雨を思わせる1週間で体調が大幅に下降し、まだ5月だというのに例の夏の病が来てしまったらしい。毎年6月から9月までは毎日具合が悪く、低血圧状態で頭に血が回らずポーッとしていて、ひたすら体がだるい。

この不調をなんとかしたいとあれこれ試したけれど、どれも画期的な解決には至らず、夏の間は南半球で暮らしたいと妄想するにとどまっている。かなり不快ではあるが、それで仕事を休んだことは一度もなく、でも仕事終わったら横にならずにいられないことも多い。

命に関わる重大な病気ではないため、西洋医学では相手にされないこういう症状の全貌を東洋医学的に解明して改善したいというのが、中医学を学び始めた動機のひとつでもある。なぜこのようになるのか、そのメカニズムを知って、なんとか解決してみたいのだ。

まだ1年生で基礎理論を始めたばかりなのだけど、すでにいくつかのヒントは得られたので、勉強をかねていろいろ試そうと考えている。

先日はもうどこかに駆け込まないといられないほどひどい状態だったので、CHAZEN生の某嬢に教えてもらった鍼灸院に行ってみた。神楽坂の古民家をリノベした場所で、鍼灸院というよりセラピーサロンのようで落ち着く。ふんわりした雰囲気の女性の先生で、初めてなのにくつろいだ。

最初の一鍼が今まで刺されたことのない場所だったので思わず「今のツボは何ですか?」、背中にお灸をしているときも「どのツボですか?」と聞いてしまい、いずれもやさしく答えてもらったけれど、私ったらまた「ナゼナニおばさん」になっているわと自覚。

カイロの先生とか、サンスクリットの先生とか、その他各地でウザがられてきたナゼナニおばさん。

ナゼナニおばさんとしては、子どもが「どうしてお空は青いの?」というのと同じで、向上心というよりは好奇心でついつい聞いてしまうだけで、決して先生を試そうと思ったりしないし、ましてやいじわるで聞くことなど思いつきもしないのだけど、人によっては答えてくれないとかよくある。ただ、「どうしてお空は青いの?」と同様、あとでその答えが自分でわかるようになってからそれが難しい質問だったと気づくこともあるので、何ら意図するものがなくても、相手をみて質問をすべきだなと思うようにはなった。

あと、つい質問してしまうのは、ナゼナニおばさん自身は質問されるの大好きだから。
座学などではどんどん聞いてくれたらいいなと思っている。自分の知らないことを聞かれると、それを課題にするので、こちらにもプラスになるしね。ただし、質問されると喜んでしゃべりすぎる傾向があるので、これまたウザがられるかもしれないけど。

たまにいらっしゃるけど、私の質問にスマートに答えてくれる先生はゾッコン敬愛してしまう。中医学、漢方ではそういう先生にたくさん会えるといいな。そして私のこの不調やら、あの人この人の不調やらを次々に解明していきたい。

そのようなモチベーションゆえ、勉強に励んでおります。

ラカンの学生生活は楽しいぞ。

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最近またペロペロするようになったアラ卒寿

自分のドラマを生きる

最近はYouTubeを超えて、ビデオを見ている。
近ごろ妙に俗に向かっている私は果たしてここで嫌悪されるのか、はたまた歓迎されるのかわからないが、初めてテレビを見たハイジみたいに喜んで次々に観ている。というのも、勉強していて眠くなったときに映画など観ると目が覚めて、そのあとすごく集中できるのだ。切り替えがうまくいってるのかな。おかげでこのところ、インド思想の探究活動やら中医学の勉強やらが目標以上に捗っている。

ショーケン観た後に映画やテレビ番組などのラインナップを見たときは興味のあるものがほとんどなかった。それが、いくつか視聴したらおすすめがカスタマイズされたので、うっかりまんまと罠にはまってしまったのだ。そんなわけで、ヨーヨー・マドキュメンタリー映画を観たら音楽系が表示されるようになり、おすすめされたのが「カルテット」という17年のテレビドラマ。

「逃げ恥」みたいなのはさすがにテレビなくても大まかには知っているけど、軽井沢が舞台というこのドラマのことはぜんぜん知らなかった(いや、きっとどこかで耳にしていたはずだけど、テレビドラマの話題をスルーしていたのだと思う)。

で、軽井沢ということでロケ地をチラ見(飛ばし見)するつもりが、初っ端から引き寄せられて4日くらいで全10話の視聴完了しちゃった。

なにしろ脚本がうまい。
伏線の張り方が凝っている。グッとくるセリフも多い。キャラ設定がいい上に役者がそろっていて、うまくその味が出ている。クドカンみたいなホンだなと思ってたら役者として出ていた。軽井沢というロケーションも上手に使っていて、よく作られている。なにより、軽さと重さ、サスペンス性とほっこり性、人間の弱さとあたたかさが絶妙なバランスで、きれいごとだけでないのに後味がよい。久しぶりに楽しいテレビの時間を味わった気がする。

これぞシャバの楽しみ。
映像や音楽は刺激が強すぎて翌日以降に残るし、その世界に溺れてしまいやすいタチなので、なるべく観ないようにしてきたけど、今は俗の方向にちょっと戻してもいいかなと思っている。

ドラマって現実にはありそうもない「たわごと」なのだけど、少しの間夢を見せてくれる。現実にはありえないけど、もしそうだったらいいなあという夢。そうやってみんな仕事のストレスを発散させたり、退屈な毎日の埋め合わせをしたりしているんだね。そういう小さな娯楽を生きがいにして、なんとか毎日をおもしろく生きているのが現代の標準的な人間なんだと思う。

だけど、どんなに楽しくてもそれはほんのいっときのこと。24時間365日の一生を楽しませてはくれない。「カルテット」を満喫したあとでそんなことを思った。

ただ、それを知った今だから、それを娯楽として楽しむことができるようにも思える。
修行のためにはある一定期間、俗を徹底的に避けることも必要だけど、洞窟で暮らすわけではないので、俗の中でどう生きるかということもまた修行のひとつである。


それはそうと、このリアルな自分の日常こそが夢・幻と言われたら驚くかな。
楽しくても苦しくても、ほんのひととき、宇宙時間で考えたらほんの一瞬のドラマ。私たちは、たぶんすでに決められているであろう筋書きを、そうとは知らずに演じているようなもの。

ただ、筋は決まっていてもどんなドラマに仕立てるかはそれぞれ変更可能なの。
苦しい苦しいともがくドラマにするか、何があっても笑顔で乗り切るドラマにするか、その演出は自分に任せられているから、同じ筋書きでも全然違うドラマになる。

そう考えると、自分の人生の演出がいちばんおもしろく思えるね。
出ずっぱりの主演俳優兼演出家だから、どんな風にでもアレンジ可能なのさ。

ドラマ「ちゃみこ」では、劇中劇を楽しみつつ、もう少しいい演出ができるよう試行錯誤を続行しております。

さて、みなさまはどう自分の人生を演出されますか?

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この汚いお顔も演出? ヘアメイクさーん、なんとかしてください

さざ波のように

先月に引き続き今月も予定どおり開講したスートラクラスですが、なぜか久しぶりのようななつかしい感じがしました。当たり前ですが、リアルなサンガはいいものです。

今日はプラーナの種類、五唯、五元素について学んだあと、超能力ならぬ「能力開発実習」としての瞑想を行いました。難しいテクニックではないけれど、意図したようにならない人もいるであろうことを想定していました。が、空振りの人はおらず、それぞれがなんらかの形で身体を意のままに変化させていく実体験を得たようです。すばらしい。

百聞は一見に如かずと言いますが、ただ非現実的な話を毎回聞かされるよりも、それらが「あながち非現実でもないかも」という体験をするほうがどんなにか理解は早い。うまく体験できない場合は逆効果になってしまう可能性もありますが。

いろいろと世の中が変わっていく今、何かと自分の行いを再確認して吟味しています。これからも続行すべきものであるか、改めるべきものであるか。改めるならいつそうすべきか、等々。

スートラクラスに関しては、予期せぬほどに理想的な集まり=サンガに育ったので、「大事なこと」を伝えるための時間としてこれからも大切にしていきたいと考えています。「大事なこと」というのは知識や哲学理論ではなく、どこを見て、どんなふうにプラクティスをしていくべきかということです。それをあの手この手でさまざまに伝える試みをしているわけですが、予想以上にこの時間が有効である手応えを感じています。

座学を何年も続けている人から初めて参加の人まで、どのレベルであっても何らかの気づきが得られるよう、自分に課題を与えながら、第4章の終わりまであと1年と数カ月ほど走り続けたいと思っています。

ほんの小さなさざ波でも、ゆっくり静かに広がって大きくなっていきます。

今わからないことも、プラクティスを続けていけばいつかは「ああ、このことか」と納得します。頭ではなく、身体で納得するのです。

頭ではなく、身体で。

そういうことです。
ただそれだけのことです。


ツワモノどもが夢の跡......

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こちらは夢の中......

17日目:最終日

ごきげんよう
明日からはこのマクラを書かないと思うとちょっと寂しい、臨時休校最終日のおざなり日記です。

戯言日記にお付き合いいただき、ありがとうございます。
明日はムーンデイでお休み。そして木曜日からはマイソールの朝が戻ります。

また会う日まで。

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おじいたんがかわいくてたまらないんでし


といっても、ブログは続きますのですぐだと思いますが......。

インド思想の読書案内 <入門〜編>

今回はインド思想の入門書を5冊紹介します。


『インドの思想』川崎信定ちくま学芸文庫

インド思想についてしかるべき研究を重ねた学者の書いた本は、一般の人にとってはまず難解だと思うのですが、この本は一般的な人がインドの何を知りたいのかという目線で書かれているように感じました。あとがきを読んで納得したのですが、もとは放送大学の教科書だったそうです。2019年に文庫化され、Kindle版もあって入手しやすいところも取り上げた理由のひとつです。

ヨガをやっている人であれば、最初のほうはスラスラと楽しく読めるでしょう。そのあとはやっぱり知らない単語がたくさん出てきますが、CHAZENの座学に出ている人なら、なんとなく聞いたことある言葉に出会いながら読み進められます。......と思いきや、そのうちにさっぱりわからない言葉のオンパレードになるでしょう。それは仕方ないです。目指すものがソレなんですから。ソレに言及しないでインド思想を語ることはできないわけです。

結局はインド学は、サンスクリット語も含めて独学がはなはだ難しいものなのです。先生に教わりながら、何年もかかってようやく理解していくようなものだと思っておけば間違いないでしょう。アシュタンガと同じですね。本はあくまで参照や理解を深めるためのものです。

それでも、この本はかなり読みやすく、わかりやすいおすすめ本といえます。


『ヨーガの哲学』立川武蔵講談社学術文庫

こちらはインド思想全般ではなくヨガというくくりで述べられているので、ヨガ界隈のみなさまには親しみやすい言葉が多く出てくると思われます。

ところで、厳密に言えばヨガは哲学ではありません。ヨガ哲学という言葉を私も便利に使わせていただいてますが、ヨガは哲学ではなく実践なのです。インド思想の中にヨガが含まれているので、そう言っても通じる「通称」のようなものだと私は考えています。(というより、ヨガが体操だと思われがちなのでそれを修正したいのと、インド思想というとまたハードルが高くなるだろうという懸念があるので、ヨガ哲学と言ってみたりしています)

ヴェーダウパニシャッドというあたりから始まるのが、この手の本の常套なのですが、この本は少し違っていて、最後のほうに出てきます。教科書的な構成でないところ、ある視点が入っているところがこの本のおもしろさだと思います。ヨーガ・スートラにひとつの章を、ハタヨーガに別の章をあてていて、仏教の中のヨーガにも触れていますが、全体をとおして流れているのが「聖なるもの・俗なるもの」という視点です。

エリアーデの翻訳をした影響だと本書で言及されていますが、次に紹介する『はじめてのインド哲学』でもこの視点でみています。ものごとを見極めるとき「善悪」ではなく「聖俗」で見ると収まりがよくなります。よくサットヴァ(純質)かラジャス(激質)かと言っているのに近いと思いますが、正しいか正しくないかという見方を避けるための方便としてもよく使っています。

その辺が個人的に好みなので、この本をおすすめとして取り上げました。


『はじめてのインド哲学立川武蔵講談社現代新書

『ヨーガの哲学』の著者によるインド哲学の入門書。
ヨガだけではなく、インド哲学全般について知りたい方はこちらがおすすめです。第1章が「自己と宇宙の同一性をもとめて」というタイトルになっているとおり、序盤から興味を引き、ヴェーダウパニシャッド、仏教と六派哲学について述べられています。進むにつれて難しくなるのは上記と同様当然の理ですね。(そもそもこの文章ももはや読まれていないと思われ)

インド思想ではなく「哲学」という名のとおり、論理学など哲学そのものにも触れていて、以前ヨーガ・スートラクラスで習った「ダルマとダルミン」的なものが好きな人には、より興味深く読めると思います。


『インド思想史』J・ゴンダ著 鎧淳訳 岩波文庫/中公文庫ほか

ずいぶん昔に読んだ本なのでなつかしく、古本で(しか手に入らない)買ってみました。が、今読んでも決して読みやすくなかったので、おすすめの入門書とは言いかねます。こんなのもあるよっていう参考まで。


そのほか、インド思想・インド哲学全般の本は何種類かざっと目を通してみました。概して古いものは読みにくいかもしれませんが、まだご活躍なさっている先生(たとえば、宮元啓一、前田専学)の書かれた比較的新しい本はどれも比較的読みやすいかと思います。



ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 今枝由郎訳 岩波文庫

ヨガもそうですが、仏教はお釈迦様以来の歴史の中でさまざまに形を変え、さまざまな国に伝わって発展してきたので、何が仏教なのかがとらえにくいのです。お釈迦さまの生涯についてはなんとなく見聞きしていても、何を説いて何を説かなかったのかまでは知らない人がほとんどです。

原始仏教は当然のことながらシンプルです。その本質を知るために、ぜひ読んでみてください。インド思想をいろいろと聞き齧ってみて、やっぱり私はお釈迦様の説いたことがいちばん腑に落ちます。

以前にこちらでも書いてます。

chayoga.exblog.jp

あと、思いついたのがこれらの本を教科書にしたインド思想のクラス。スートラクラスの中に組み込んでいくのもおもしろいかもしれません。

これで休校中の宿題完了です。
気が向いたらマニアック編も書いてみたいと思います。

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ゴンダ本はジャケ買いだったな