CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

マイソールの花

今年の朝顔第一号が咲いてました。

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蓮もすくすく育っているが花は咲かぬ......


朝顔を育てるのは何年ぶりでしょうか。
ここ数年夏に不在にすることが多く育てるのをやめていたのですが、先月の臨時休校中片付けをしていたらタネが5〜6粒出てきたので蒔いてみたのでした。

今では知らない人がほとんどでしょうが、かつてCHAZENの窓いっぱいに朝顔が伸びていたことがあったのですよ。

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2013年の夏を知る人はわずか


考えてみれば実に浅はかでしたが、私ったらグリーンカーテンで室内を涼しくできると思っておりましたのです。

ええ、その夏のマイソールは灼熱地獄でございまして、のちのちまでもその暑さが語り種になるほど。翌年からはシェードを導入してネットが邪魔になるので、その年限りマボロシグリーンカーテンでした。

朝顔だけでなく、パッションフルーツやら、ヒョウタンやらゴーヤまで育てていたのです。

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小ぶりだけどちゃんと食べられた


最初の年は植物のことなど何もわからず、あれこれ買ってきては実験的に植えていたものです。今ではもう、ほったらかしておいても育つ植物しか残っていません。

あれ、それってCHAZEN生と同じですね。コロナでも残っている人たちは、あの年改修工事を生き延びた植物たちのような強さがあります。

3年ほど前にマンション外壁工事で足場が組まれ、ベランダの防水工事もあってプランターを一時避難させていたのですが、風通しのわるいところに置いていたので多くがダメになってしまったのでした。あの年はアリが異常発生して部屋の中にまで入ってくるという事件もありましたが、不思議なことに今はアリンコが1匹もいないのです。どういうことなんでしょう。まさかコロナで自粛中?

田んぼだ分校だと長らくCHAZENのベランダを放置していました。お山で大きなモミジを掘り起こして植え替えたりしてたので、この狭いベランダでちまちま土いじりする気がしなくなったというのが言い訳のひとつなのですけど、私の不在中に練習生が水をやって大切に育ててくれた植物たちだけに大事にしようと思います。


それはさておき。
今朝は久しぶりの朝顔にうれしくなりました。
以前どこかで書いた気がしますが、朝顔はマイソールの花だと勝手に思っています。早朝ひっそりと開花して日が高くなるころにはしぼむ。そうしてまた翌日花を開かせてはどんどん上に伸びていく。つかの間開いてそれでおしまいっていう執着のなさも好きです。

朝が来たら自動的に花が開くように、朝が来たらプラクティスをする。

ただそれだけで十分美しいのです。

ヨーガ・スートラとCHAZENのアシュタンガ

少し前まではお山を往復してはひたすら肉体労働三昧だった生活が、4月から東京ステイホームの勉強三昧に一変した。もともとアウトドアとインドアが両方充足していないといられない(暴れたくなる)タチなのだけれど、よくまあおとなしく家の中で勉強してるなと我ながら感心する。もっとも、マイソールクラスは肉体労働だから、インドアではあるけれどバランスとしてはいい配分なのかもしれない。

それで、本日スートラ第4章のラフな日本語訳を予定よりだいぶ早くひととおり終わらせた。もがきながら喘ぎながらの苦しい作業だったが、いったん止めたら再開するのが嫌になるような気がしたので突っ走った。そういう意味ではお山の作業と同じか。

実はこのモガキ、産みの苦しみこそが必要なのだ。
この作業なしには、とてもこの簡潔すぎて意味不明なスートラを解説することはできない。徹底的に調べ上げて自分で納得してから、CHAZEN生にとって大事なエッセンスを抽出する。スートラの内容は英語でも日本語でも読んできたけれど、私の能力では、訳文や解説本を読んだだけで深く理解しえない。サンスクリット語の文法を学んで、言葉をひとつひとつ辞書で引き、いろんな先人の解釈を調べて、最終的に自分の解釈を見つけるという作業なしには不可能だった。

まだ粗訳ができたというだけで推敲はこれからだし、実際にクラスで第4章に入るのはまだ半年近く先だけど、ゴールが見えたことで完走の気分をちょっぴり先取りした(これ慢心だね)。今まではサンスクリットですぐに煮詰まってしまってダラダラやっていたけど、前より少しは力がついたのかもしれないし、中医学・漢方の勉強があるからこそ、勢いもついたし、早いとこやっつける気にもなった。

そして、先取り気分の今思うのは、ヨーガ・スートラは私が考えていた以上に優れた文献だということ。

お釈迦さまの説かれたことを知ってしまうと(会ったことはないけど)、ヨガが若干残念なものに思えることがある。私のなかではお釈迦さまがいちばん(仏教ではなく)で、そのお釈迦さまのベースを作ったのが古代のインド思想という位置づけになるくらいだ。ヨーガ・スートラも第3章は胡散臭いように思えてさらっと飛ばし読みしたいと思っていたが、それは私の読みが浅かったせいだとわかる。ヨーガ・スートラはしごくまっとうな正統派古典ヨーガの存在を証明するものなのだと改めて思う。

エクササイズだと思われている現代のヨガはヨガが生き残って人々に恩恵をもたらすために必要な「いいとこ取り」であり、胡散臭さを排除したために「健全」となった。けれども、グルジの考えたのはその健全さではなく、このヨーガ・スートラを基本に据えた本物の「健全」なアシュタンガヨガであり、私の解釈ではわりとお釈迦さまに近いところにある現代のヨガととらえている。言い過ぎかもしれないが、「私の解釈では」を「CHAZENのアシュタンガは」と言い換えるとしっくりくる。

そういえば、最近のスートラクラスはCHAZEN生オンリーになっている。以前はけっこう他のマイソールで練習している人も参加してたのだが、今はCHAZEN生だけでいっぱいだ。おそらく、私のスートラ解釈が、CHAZENでのアーサナ練習と深くリンクしているので、両方やらないと面白味が半減してしまうのかもしれない。というより、スートラクラスを始めてから4年になるから、CHAZEN生でもなければ付き合いきれないというところか。

自分のやっていることが正しいのか正しくないのかは不明だけれども、おかげさまで誰にも邪魔されずに好きなように自分の解釈を続けていられることをありがたく思う。目立たないってすばらしい。

もちろん、いつなんどき予想もしないナニカが起こってそれが不可能になるかもわからないけれど、コロナ禍をくぐり抜けて無事第4章を読み終えることができるよう祈るばかり。

その前に、まずは超能力マターの第3章ですね。
今回は「寝ててもいい時間」を設けます(え!?)。起きてるフリをするのは苦痛ですけん。

ご参加お待ちしています。

犬が落ちてる季節になりました

食べるくすり

この夏をなんとか「正気」で過ごすために、徹底的に胃腸(中医学的には脾胃)を大事にしようと決めた。食べすぎないということは常に心がけている(けど実行できない)けれど、さらに「ムダなものを極力口にしない」ことを心に誓ったのだ。お茶を飲むと食べたくなる団子とか煎餅、クッキー、おやつパンなどはもちろん、外食やスーパーでつい買ってしまうお惣菜なども、夏の間は控えることにした。

消化力が落ちているのに、ついいつもの量を食べてしまったり、脳に血が回らないポーっとした状態を咀嚼することで改善しようとしたり、食べてサンスクリット語と格闘するときの眠気を覚まそうとしたりする(逆効果でしかない)習慣を今年こそはやめよう。ムダに内臓に負担をかけることなく、身体に気血がめぐるものを効率よく食べるのだ。

漢方スクール併設のショップで売っているクコの実とか、ハトムギの煎ったものなどもいろいろ試している。まだ漢方薬の勉強に至ってないので、今は生薬にもなる食材をどのように食べるか実験中。
 
そのなかでヒットだったのが健胃効果のあるナツメ。これはいい。レシピにはリキュールを入れるとあったのだが、現在のわが家にはそういったものがないので、某嬢特製のカリン酒(分校の庭でとれたカリンの)で煮たらこれが最高に当たりだった。食べるお薬がおいしすぎてヤバい。

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シロップごとヨーグルトにかけるのもよし


気温が高いと朝はさほどお腹がすいてないので(冬は必ず飢えている)、今朝はマイソールのあと黒ゴマ豆乳バナナジュースなど飲んでおいて、お昼過ぎにお腹がすいてから食事の支度をして食べることにした。

で、今日のランチ。

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根菜たっぷりのサラダ


黄色は五臓のうち脾胃によい食材の色で、赤は心によい。

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夏野菜たっぷりの冷製リゾット

え? お店の料理みたいって?

はい、そのとおりです。

実は、お昼作ろうと思ってお米を浸水させている間に用事を思い出して、お米放置して出かけてしまい......。暑い中歩いていたら某イタリアンのランチメニュー「魚介と夏野菜の冷製リゾット」に目を奪われ......。外食禁止令のこと、浸水させてしまったお米のことを思い、しばし葛藤した末、掟を破ることにしたのだった。

というのも、サラダといいリゾットといい薬膳的なメニューだなと思ったの。レンコンやトマトは薬膳レシピの定番食材だし、自炊だと種類豊富な野菜は食べられないのでちょうどいい。それに、黄色い野菜をと思って買ったかぼちゃだけど、食べ切るのにちょっと苦労する。

浸水させてしまったお米はとりあえず炊いて、明日冷や汁に......するつもりだったのだけど、白胡麻と青紫蘇のおにぎりにしたらつい食べてしまった(お米ならいくらでも食べ切れてしまうのがよろしくない)。

毎日のごはんが「気」になり、「血」になり、私たちの生命となるのだけど、五臓の働きに問題があると食べたものが気血になって全身に行き渡らないのさ。

心養生(心をととのえること)、食養生(食べること)、動養生(身体を動かすこと)、休養生(休息すること)が養生の基本。これらのバランスがととのうことで真の健康が得られる。心養生と動養生はCHAZENのメインテーマだからして、やっぱり課題は食養生

今まで何やっても解決しなかった「夏の病」が食養生漢方薬で克服できるかも。


ムダなものを一切食べない(もらえない)のが、理事長流長寿の秘訣でしょうか。

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&女子に可愛がられることでしよ

五蘊は空なんです

先日の体調不良がある漢方薬飲んだら即効でよくなった。たとえば鎮痛剤を飲んで痛みがスーッと引くように、モヤがさーっと晴れていくように、ポーッとしたのが取れたのだ。

体調がいいと中医学の勉強が調子よく捗って余裕ができたので、ヨーガ・スートラ第4章の日本語訳に取り組んでいる。そうしたら快調だった流れが一気に停止した。おそるべしサンスクリット語とスートラ解釈よ。難しいような気がしていた中医学が九九を覚える程度に思えるほどの破壊力だ。

あまりにも脳が完全に機能停止状態になるので、そのまま続けても効率が上がらない。そんなわけでしばらく出番のなかったプライムビデオが救世主となった。今回目に止まったのは「コタキ兄弟と四苦八苦」というテレビドラマ。

目が覚めることだけを期待して第一話を見始めたら、なんとまあオモシロイじゃないですか。

しかし、これはあくまでも眠気覚まし。ドラマにうつつを抜かしていてはスートラがますます遠ざかるだけだ。と、最初は1話ずつちびちび観ていたのだけれど、1話完結と思っていた物語に大きな仕掛けが組まれていることがわかってきた中盤以降加速して、またしても後半は一気見(30分ものだしね)。

やられたね。
私がヨガや禅に入れ込んでいる間に、シャバではこんなドラマを放送してたんだねえ(といっても昨年)。シャバもなかなかやるのう。主演の二人はまったく知らない俳優さんで、それだけにホンモノの匂いがプンプンしたし、やっぱり脚本がいいわ。視聴率よりもほんとにつくりたいものをつくった感がありありで、すべてがとんでもなくワタシ好み。

それはそうと、タイトルに四苦八苦とついているくらいだから、生老病死苦に加えて、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦などの言葉がエンディングに出てくるのだけど、それは申し訳程度のオマケで、ドラマの設定や内容に仏教色はない。そもそもがコメディなので笑いのネタ風に使われている。

......と思っていたら、後半にすごいの来た。

このドラマにもクドカンが絡んでいたのだけれど、とあるシーンで彼<レンタル親父の元締>が、同棲相手と別れて苦悩している<さっちゃん>に「苦しいですね」と静かに語りかける(以下クドカンのセリフ書き起こし)。

苦しみから逃れる方法を教えてあげましょうか?

五蘊は空なんです。実体はありません。

この肉体も、気持ちも、抱いた感情も、行いも意識も、なんでもない。

あなたという存在は、あなたがあなただと思うからあなたなのであり、誰かがあなたを認識したからあなたなんです。


般若心経の経文に書いてあること、すなわち五蘊非我について説くこのセリフ、ここだけ突然コテコテ仏教風味で、私はウケまくっていた。

というのも、この話、今度のスートラでも話そうとしてたことに関係するから。
20日のスートラクラスは「ややムズ」なサーンキヤの話をしようと思っているのだけど、あまりに想像もつかないような内容だとみんな寝てしまうので、先月ちらっと般若心経の一部を書いて来月また話すねと予告したとおり、般若心経にからめて話そうと思っていたのだ。

ちなみに、こうクドカンに言われた<さっちゃん20歳>は当然ながら「さっぱりわかりません」と言うのだけれど、オトナのCHAZEN生ならきっとわかってくれるはず。いや、わからなくてもいい。なんとなくおもしろそうだなと興味をもってもらえたら、言っていることが理解できなくても、楽しい時間になるでしょう。

仮に「激ムズ」で何言ってるかぜんぜんわからなかったとしてもせいぜい15分くらいで終わるので、目を開けて脳だけ寝てても、あるいは目を閉じて瞑想のフリをしていても大丈夫です。理解できないことはこだわらず、流しておけばいいのです。そのうちわかります。きっと。ただ「時間が必要」なだけです。

繰り返すよ。

あなたという存在は、あなたがあなただと思うからあなたなのであり、誰かがあなたを認識したからあなたなんです。


以前紹介した『からだは星からできている』では、宇宙はそれを認識する意識があるから存在するというような話があって、ゾクゾクした。

インド思想の愉しみはヨガと同様、すぐに理解できるものではなく、じっくり時間をかけてじわじわと身体に染み込んでいくことにある。

ごうんはくう、なんでしよ......

聖なる時間と空間

胃に食べ物を入れてしまったらできなくなるアシュタンガの練習とは違って、坐禅はいつでも可能だ。摂心など1日中坐っているわけだから、時間帯には関係ない。関係ないはずだけれど、できれば夜が明けないうちに坐りたい。まだ薄暗いうちにスタートして、お香が燃え尽きるころに明るくなっているのが理想だ。

今の季節は夜明けが早いし、犬が起きたらすべての時間をお犬様に捧げねばならぬのでその前に坐りたい。ところが、私が早く起きるとなぜか犬も早く起きるようになる無念......。犬の世話をひととおり終えてから坐ればいいだけの話なのだけど、そういう日常の雑事を挟むともうそこは別の空間になってしまう。

空が白んで世の中が動き始めると、空間のもつエネルギーが変化するのを感じる。そうなる前に、神聖な闇と静けさの中で、聖なる時間に包まれることが私の魂にとって何よりの浄化となる。坐禅が終わった後に夜が明けているのは、プラクティスのあとに光を見出す象徴のようでもある。

とびきりの聖なる時間のあとも、準・聖なる時間は続く。世の中が動き始めて騒がしくなるまでの時間はプラクティスに最適な時間だ。もちろん、自分に向き合う時間をもつことが大事なので、プラクティスは日中だろうが夕方や夜のどの時間に行ってもいい。それでも、やはりおすすめは早朝、CHAZENマイソールの時間帯だ。

臨時休校明けの、とある早朝に、私の役目はここを聖なる空間にしておくことなんだろうなとふと思った。よき指導者であるための諸条件を達成することよりも(それも大事だけど)、汚れのない空間にしておくことがCHAZENらしさのような気がした。実際には聖なるどころか、老犬が徘徊してたりする俗な空間なのだけど、なんだかそう確信した。

ほとんどの人は「聖」とはあまり結びつかない営利を目的としたお仕事をされているし、家族をもち、社会人として必要な日常業務とともに生活している。それだけに、早朝のひとときそこから離れて「特別な」時間をもち、自分と向き合うことは、それぞれにとって「聖なる」時間なはず。それを感じるからこそ、早起きしてまでCHAZENに来るのだと思う。

早朝5時半〜の時間帯は汚れていない聖なる時間度が高い。今お出ましになったばかりのスーリヤ様とともにプラクティスする歓びを味わわれたし。


お掃除してたら、理事長が自主練をされているのが目に入り、掃除機放り投げて激写した。

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これがシューチャナーサナBだ


しかし、聖という言葉を多用すると、とたんに安っぽくなって俗に落ちるのであまり使わないようにしよう。

蛇足ながら、4年に一度の「聖典」は、ただの金まみれの祭典であることが誰の目にも明らかになりましたしね。

ナゼナニおばさん

こないだまでの梅雨を思わせる1週間で体調が大幅に下降し、まだ5月だというのに例の夏の病が来てしまったらしい。毎年6月から9月までは毎日具合が悪く、低血圧状態で頭に血が回らずポーッとしていて、ひたすら体がだるい。

この不調をなんとかしたいとあれこれ試したけれど、どれも画期的な解決には至らず、夏の間は南半球で暮らしたいと妄想するにとどまっている。かなり不快ではあるが、それで仕事を休んだことは一度もなく、でも仕事終わったら横にならずにいられないことも多い。

命に関わる重大な病気ではないため、西洋医学では相手にされないこういう症状の全貌を東洋医学的に解明して改善したいというのが、中医学を学び始めた動機のひとつでもある。なぜこのようになるのか、そのメカニズムを知って、なんとか解決してみたいのだ。

まだ1年生で基礎理論を始めたばかりなのだけど、すでにいくつかのヒントは得られたので、勉強をかねていろいろ試そうと考えている。

先日はもうどこかに駆け込まないといられないほどひどい状態だったので、CHAZEN生の某嬢に教えてもらった鍼灸院に行ってみた。神楽坂の古民家をリノベした場所で、鍼灸院というよりセラピーサロンのようで落ち着く。ふんわりした雰囲気の女性の先生で、初めてなのにくつろいだ。

最初の一鍼が今まで刺されたことのない場所だったので思わず「今のツボは何ですか?」、背中にお灸をしているときも「どのツボですか?」と聞いてしまい、いずれもやさしく答えてもらったけれど、私ったらまた「ナゼナニおばさん」になっているわと自覚。

カイロの先生とか、サンスクリットの先生とか、その他各地でウザがられてきたナゼナニおばさん。

ナゼナニおばさんとしては、子どもが「どうしてお空は青いの?」というのと同じで、向上心というよりは好奇心でついつい聞いてしまうだけで、決して先生を試そうと思ったりしないし、ましてやいじわるで聞くことなど思いつきもしないのだけど、人によっては答えてくれないとかよくある。ただ、「どうしてお空は青いの?」と同様、あとでその答えが自分でわかるようになってからそれが難しい質問だったと気づくこともあるので、何ら意図するものがなくても、相手をみて質問をすべきだなと思うようにはなった。

あと、つい質問してしまうのは、ナゼナニおばさん自身は質問されるの大好きだから。
座学などではどんどん聞いてくれたらいいなと思っている。自分の知らないことを聞かれると、それを課題にするので、こちらにもプラスになるしね。ただし、質問されると喜んでしゃべりすぎる傾向があるので、これまたウザがられるかもしれないけど。

たまにいらっしゃるけど、私の質問にスマートに答えてくれる先生はゾッコン敬愛してしまう。中医学、漢方ではそういう先生にたくさん会えるといいな。そして私のこの不調やら、あの人この人の不調やらを次々に解明していきたい。

そのようなモチベーションゆえ、勉強に励んでおります。

ラカンの学生生活は楽しいぞ。

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最近またペロペロするようになったアラ卒寿

自分のドラマを生きる

最近はYouTubeを超えて、ビデオを見ている。
近ごろ妙に俗に向かっている私は果たしてここで嫌悪されるのか、はたまた歓迎されるのかわからないが、初めてテレビを見たハイジみたいに喜んで次々に観ている。というのも、勉強していて眠くなったときに映画など観ると目が覚めて、そのあとすごく集中できるのだ。切り替えがうまくいってるのかな。おかげでこのところ、インド思想の探究活動やら中医学の勉強やらが目標以上に捗っている。

ショーケン観た後に映画やテレビ番組などのラインナップを見たときは興味のあるものがほとんどなかった。それが、いくつか視聴したらおすすめがカスタマイズされたので、うっかりまんまと罠にはまってしまったのだ。そんなわけで、ヨーヨー・マドキュメンタリー映画を観たら音楽系が表示されるようになり、おすすめされたのが「カルテット」という17年のテレビドラマ。

「逃げ恥」みたいなのはさすがにテレビなくても大まかには知っているけど、軽井沢が舞台というこのドラマのことはぜんぜん知らなかった(いや、きっとどこかで耳にしていたはずだけど、テレビドラマの話題をスルーしていたのだと思う)。

で、軽井沢ということでロケ地をチラ見(飛ばし見)するつもりが、初っ端から引き寄せられて4日くらいで全10話の視聴完了しちゃった。

なにしろ脚本がうまい。
伏線の張り方が凝っている。グッとくるセリフも多い。キャラ設定がいい上に役者がそろっていて、うまくその味が出ている。クドカンみたいなホンだなと思ってたら役者として出ていた。軽井沢というロケーションも上手に使っていて、よく作られている。なにより、軽さと重さ、サスペンス性とほっこり性、人間の弱さとあたたかさが絶妙なバランスで、きれいごとだけでないのに後味がよい。久しぶりに楽しいテレビの時間を味わった気がする。

これぞシャバの楽しみ。
映像や音楽は刺激が強すぎて翌日以降に残るし、その世界に溺れてしまいやすいタチなので、なるべく観ないようにしてきたけど、今は俗の方向にちょっと戻してもいいかなと思っている。

ドラマって現実にはありそうもない「たわごと」なのだけど、少しの間夢を見せてくれる。現実にはありえないけど、もしそうだったらいいなあという夢。そうやってみんな仕事のストレスを発散させたり、退屈な毎日の埋め合わせをしたりしているんだね。そういう小さな娯楽を生きがいにして、なんとか毎日をおもしろく生きているのが現代の標準的な人間なんだと思う。

だけど、どんなに楽しくてもそれはほんのいっときのこと。24時間365日の一生を楽しませてはくれない。「カルテット」を満喫したあとでそんなことを思った。

ただ、それを知った今だから、それを娯楽として楽しむことができるようにも思える。
修行のためにはある一定期間、俗を徹底的に避けることも必要だけど、洞窟で暮らすわけではないので、俗の中でどう生きるかということもまた修行のひとつである。


それはそうと、このリアルな自分の日常こそが夢・幻と言われたら驚くかな。
楽しくても苦しくても、ほんのひととき、宇宙時間で考えたらほんの一瞬のドラマ。私たちは、たぶんすでに決められているであろう筋書きを、そうとは知らずに演じているようなもの。

ただ、筋は決まっていてもどんなドラマに仕立てるかはそれぞれ変更可能なの。
苦しい苦しいともがくドラマにするか、何があっても笑顔で乗り切るドラマにするか、その演出は自分に任せられているから、同じ筋書きでも全然違うドラマになる。

そう考えると、自分の人生の演出がいちばんおもしろく思えるね。
出ずっぱりの主演俳優兼演出家だから、どんな風にでもアレンジ可能なのさ。

ドラマ「ちゃみこ」では、劇中劇を楽しみつつ、もう少しいい演出ができるよう試行錯誤を続行しております。

さて、みなさまはどう自分の人生を演出されますか?

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この汚いお顔も演出? ヘアメイクさーん、なんとかしてください