CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

ヨーガ・スートラとCHAZENのアシュタンガ

少し前まではお山を往復してはひたすら肉体労働三昧だった生活が、4月から東京ステイホームの勉強三昧に一変した。もともとアウトドアとインドアが両方充足していないといられない(暴れたくなる)タチなのだけれど、よくまあおとなしく家の中で勉強してるなと我ながら感心する。もっとも、マイソールクラスは肉体労働だから、インドアではあるけれどバランスとしてはいい配分なのかもしれない。

それで、本日スートラ第4章のラフな日本語訳を予定よりだいぶ早くひととおり終わらせた。もがきながら喘ぎながらの苦しい作業だったが、いったん止めたら再開するのが嫌になるような気がしたので突っ走った。そういう意味ではお山の作業と同じか。

実はこのモガキ、産みの苦しみこそが必要なのだ。
この作業なしには、とてもこの簡潔すぎて意味不明なスートラを解説することはできない。徹底的に調べ上げて自分で納得してから、CHAZEN生にとって大事なエッセンスを抽出する。スートラの内容は英語でも日本語でも読んできたけれど、私の能力では、訳文や解説本を読んだだけで深く理解しえない。サンスクリット語の文法を学んで、言葉をひとつひとつ辞書で引き、いろんな先人の解釈を調べて、最終的に自分の解釈を見つけるという作業なしには不可能だった。

まだ粗訳ができたというだけで推敲はこれからだし、実際にクラスで第4章に入るのはまだ半年近く先だけど、ゴールが見えたことで完走の気分をちょっぴり先取りした(これ慢心だね)。今まではサンスクリットですぐに煮詰まってしまってダラダラやっていたけど、前より少しは力がついたのかもしれないし、中医学・漢方の勉強があるからこそ、勢いもついたし、早いとこやっつける気にもなった。

そして、先取り気分の今思うのは、ヨーガ・スートラは私が考えていた以上に優れた文献だということ。

お釈迦さまの説かれたことを知ってしまうと(会ったことはないけど)、ヨガが若干残念なものに思えることがある。私のなかではお釈迦さまがいちばん(仏教ではなく)で、そのお釈迦さまのベースを作ったのが古代のインド思想という位置づけになるくらいだ。ヨーガ・スートラも第3章は胡散臭いように思えてさらっと飛ばし読みしたいと思っていたが、それは私の読みが浅かったせいだとわかる。ヨーガ・スートラはしごくまっとうな正統派古典ヨーガの存在を証明するものなのだと改めて思う。

エクササイズだと思われている現代のヨガはヨガが生き残って人々に恩恵をもたらすために必要な「いいとこ取り」であり、胡散臭さを排除したために「健全」となった。けれども、グルジの考えたのはその健全さではなく、このヨーガ・スートラを基本に据えた本物の「健全」なアシュタンガヨガであり、私の解釈ではわりとお釈迦さまに近いところにある現代のヨガととらえている。言い過ぎかもしれないが、「私の解釈では」を「CHAZENのアシュタンガは」と言い換えるとしっくりくる。

そういえば、最近のスートラクラスはCHAZEN生オンリーになっている。以前はけっこう他のマイソールで練習している人も参加してたのだが、今はCHAZEN生だけでいっぱいだ。おそらく、私のスートラ解釈が、CHAZENでのアーサナ練習と深くリンクしているので、両方やらないと面白味が半減してしまうのかもしれない。というより、スートラクラスを始めてから4年になるから、CHAZEN生でもなければ付き合いきれないというところか。

自分のやっていることが正しいのか正しくないのかは不明だけれども、おかげさまで誰にも邪魔されずに好きなように自分の解釈を続けていられることをありがたく思う。目立たないってすばらしい。

もちろん、いつなんどき予想もしないナニカが起こってそれが不可能になるかもわからないけれど、コロナ禍をくぐり抜けて無事第4章を読み終えることができるよう祈るばかり。

その前に、まずは超能力マターの第3章ですね。
今回は「寝ててもいい時間」を設けます(え!?)。起きてるフリをするのは苦痛ですけん。

ご参加お待ちしています。

犬が落ちてる季節になりました