CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

愛情ホルモンの漢方薬

近ごろは、お医者さん向けの漢方講演会(オンラインで)に潜入して、実際の臨床でどの方剤がどのように使われているかなどを学んでいる。それで感じたのだけど、けっこうな割合で先生方が西洋医学マインドセットのまま、西洋医療の枠組みの中で漢方を使っているような気がする。

さらに推測されるのが、大方の先生は「よくわからんけど、これ出しときゃ大丈夫でしょ」的に無難な方剤を出しているのではないか。とはいえ、病気に対するそもそもの考えが違うのだから仕方ない。ちゃんと基礎から勉強しないと理解できないけれど、興味も時間もないのが実情なのだと思う。それでも、たとえ小手先の処方であっても、ちゃんと漢方が効果を発揮してくれるので、ますます漢方を使わざるを得ないのだろう。

このような「現場」が見られるのも勉強だから聴くだけ聴いておこうと、先日も開講時間をまわったころにだらっとZoom inしたところ、一見して興味をそそられ居住まいを正して真剣に聴いた。漢方薬の化学的な作用についての講演であったからだ。

オキシトシンという神経伝達物質をご存知だろうか。

このオキシトシンは、分娩から授乳、信頼関係、母性本能などの母子関係に重要なホルモンで、マウスを使った実験では、通常母マウスは生まれた子を引き寄せて授乳し、外界の敵から守り、本能的な愛情を注ぐのだが、オキシトシンを除かれたマウスでは子に無関心でケアをしないことが確認されているそうだ。ヒトの場合もお母さんから愛情を注がれた子は、安心し、リラックスして、自身も愛情たっぷりな母になる。

オキシトシンは愛情ホルモン、幸せホルモンとしていま注目されている。セロトニンとちょっと似ているようにも思ったのだけれど、自閉症から骨粗鬆症から、さまざまな疾患に応用されて効果をあげているのだそう。

オキシトシンには食欲を抑えて肥満を改善する効果もあるそうだ。プレゼンターの先生が勤務される福島では震災後肥満になるケースが増加している(いわゆるストレス太り)が、肥満であればあるほどオキシトシンによる改善効果が高いという調査結果が確認された。心が満たされていたら必要以上に食べなくてもよくなるのは自明の理である。

さて、ここからが漢方との関連になるが、研究チームでは、オキシトシンの作用が漢方薬の「加味帰脾湯」の効能に似ていることに気づき、これまでにさまざまな実験をおこなってきた。その結果、加味帰脾湯の投与によって脳の視床下部にあるオキシトシンニューロンを活性化させることがわかった。

さらにどの生薬がその効能を発揮しているのかを他の方剤と比較しながら調べたところ、「大棗(なつめ)」や「当帰」「生姜」などでそれが確認された。とはいえ、大棗だけでは効果は弱く、他の生薬との組み合わせである「加味帰脾湯」でその効果が大きくなるという。加味帰脾湯において大棗はメインの生薬ではないので、やはりこの組み合わせが効果を引き出す鍵を握っているのだと推測される。

やっぱりね、と思った。漢方薬はこの配合こそが大発明なのだ。生薬自体は自然界にある植物や鉱物などであるが、それを微妙な匙加減で組み合わせたときに、各自の能力を超越した力を発揮するという、いわばチームプレーのなせる技。そのチーム編成を考えたのが古代中国のセンセイ方なのだから恐れ入る(加味帰脾湯は中世の処方だけど)。

現在、漢方相談で加味帰脾湯を服用してもらっている人がいるのだけれど、いくつか服用した方剤のなかでもっとも効果を感じているらしい。いつもメールに「帰脾湯」と書いてくるのは、癒しのホルモンを体感しているのからなのかもしれないな。

ところで、漢方薬を使わずともこのオキシトシンニューロンを活性化する方法がある。

母親が子どもにマッサージしてあげると、子どものオキシトシンが増加するだけではなく、マッサージをした母親のオキシトシンも増加するのだそう。

ちなみに、子どもの夜泣きに使う「抑肝散」は、母子相関でお母さんも一緒に飲むといいらしい。うちの老犬が「抑肝散加陳皮半夏」飲んでいたとき、私も飲むべきだったか。

母子という観点で考えれば、抱きしめたり、チューしたり、手足をぷにぷにしたりするのもぜんぶストレスを軽減する効果があるのだろう。考えてみれば、コロナ社会ではオキシトシンが著しく不足しているから、積極的にオキシトシン増量作戦を実行したほうがいい。

たとえば、ペットと見つめ合うのもオキシトシンニューロンを活性化するそうだ。ペットを飼ってない人でも、CHAZENに来ればもれなく活性化できるよ。ペットでなくても、見返りを期待しないような心地よい関係があれば、一緒にいるだけでも活性化するような気がする。

CHAZENのスートラクラスなんかめっちゃ活性化されそう(うしし、明日だ)。

そうと知ったからには、12日の漢方養生ヨガでオキシトシンが増加するようなメニューを盛り込むことにした。テーマは除湿なので、梅雨時や夏に心身の調子が崩れる人はもちろん、ストレスを感じている人もぜひご参加ください。なお漢方喫茶のみの受講も可能ですが、時間を短めに変更しましたので、漢方養生ヨガからのご参加をおすすめします。

見つめ合って、オキシトシンがドバドバっ〜。

向こうからは見えてないけどね

仏性に出会う

汗をかく季節になりました。そうなると必然的に浮上するのがマットの匂い問題です。

今年は夏の間、月に一度は洗ってきていただくことにして、先日その旨お知らせをしました。各自都合のいい日に持ち帰ってねというスタンスではありましたが、なんとなく積極的に持ち帰る気配が希薄なのを感じました。むしろ「またかよ」「メンドクサイなあ」「私のマットはニオってませんから」「スルーしよ」という(思っていても言えない)気配が濃厚です。

その気持ちはわかります。私たちは面倒なことや今は気分じゃないことをやるように言われると、「え〜!」とつい抵抗したくなるものです。

反面、そんなに面倒なことなのだろうかと首を傾げたくもなります。ヨガマットは毎日の練習を支えてくれるいわば伴走者ですから、感謝の気持ちを込めて洗うことで清浄になるのはむしろ自分自身の心でしょう。それに、ここはヨガのサービスを提供するスタジオではなく、それぞれが自分自身と向き合うための道場です。マットを洗うことはプラクティスの一部なのです。

お知らせメールの翌日はあいにくの大雨で、案の定持ち帰る人はいませんでした。

と思っていたら、私が気づかなかっただけで実はちゃんと持ち帰っていた人がいたのです。都外からバスや電車を乗り継いで通っている人です。膝を痛めていて、ひどいときは歩くのも困難になる人です。

また雨だった日に洗ったマットを持ってきたのを見てそれを知り、なんだか尊いものを見たような、美しいものに出会ったような感動を覚えました。なんて清々しい行いなのでしょう。そこにはまったく迷いというものがありません。

鈴木俊隆老師の言葉を思い出しました。
(引用はすべて鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド 2』藤田一照訳 サンガ刊より)

仏性はあなたが「はい!」というときにあります。その「はい!」は仏性そのものです。自分の中にすでにあると思っている仏性は仏性ではありません。あなたがあなた自身になっているとき、あるいは自分自身のことを一切忘れて「はい!」と言うとき、それが仏性です。

美しいものに出会ったと思ったのは、そこに仏性を見たからだったのですね。

上記は禅の公案である「百尺竿頭進一歩」についての項にある言葉で、詳細は長くなるので省きますが、俊隆老師はこれをわかりやすいたとえで説明しています。

この瞬間を忘れて、次の瞬間へと成長しなさい。それが唯一の道です。たとえば、朝食の準備ができたとき、妻が拍子木を叩いて私にそれを知らせてくれます。もし私が返事をしなければ、妻は私が怒り出すまでそれを叩き続けるでしょう。

......だから秘訣はただ「はい!」と言って、ここから飛び降りることです。それで問題は何もありません。それは自分自身であること、古い自分にしがみつくことなく、いつでも自分自身であることを意味しています。自分に関する一切を忘れ、新たな自分になるのです。

こと修行に関しては、一も二もないのです。ただ「はい!」と言ってやるだけなのです。

「でも」とか「だって」とか、やらない理由をあれこれ考えるのは簡単ですが、それこそが古い自分にしがみついている証拠です。「はい!」と言わないために迷いが生じて自分自身を苦しめているだけなのですね。

禅はみなさんが考える以上にシンプルなのです。


件の仏性の人が持ってきてくれたお庭のハーブ(これまた禅的)。

はからずも六花亭のイラストと合っている

「わかりあえない他者と生きる」

現代の哲学者たちがどんなことを言っているのかを知らないのだけれど、たまさかマルクス・ガブリエルの『わかりあえない他者と生きる 差異と分断を乗り越える哲学』PHP新書(以下引用はすべてこちらから)を読んでみた。タイトルが気になったのと、名前だけは存じていたこの方がどういうことを語られるのかなと。

ふうん、これが現代思想のトレンドなのか。
と、興味深かったり納得させられる部分もあるけれど(SNSはやめなさいとか)、結局は現代の枠組みの中であれこれを論じているだけで核のようなものは見つけられなかった。他の著書を読んだら違うのかもしれないけれど、お釈迦様が偉大すぎてほかの思想はどれも同じに思えてしまうのよ。

おそらく現代の西洋の思想家たちは、ヨガやマインドフルネスの普及により、それなりに東洋思想を学び、ある程度の影響を受けているのではないかと思う。ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルも然り。ところどころに、瞑想だの、マインドフルネスだのという言葉が登場する。

彼は東洋思想のなかでも、禅宗に代表される現在主義(presentism)という哲学に興味を持っているという。そして、禅宗の説く「欲望のレベルを下げること」が大事だと書いてあるので目を見開いて読んでみたのだけれど、具体的な話には展開せず、日本のメディア向けのサービスで「フジヤマ・ゲイシャ」的に言っているようにしか思えないのが残念だった。

禅宗に代表される現在主義」とはどういうことを指しているのだろう。形而上的な時間の観念というよりも、現実的な在り方の問題として言っているようにも感じられる。

この本の中には、「今」が大事であるということが述べられている。これが「現在主義」の側面なのかどうかはさておき、おっしゃるとおりなので以下に引用させていただく。

常に今行動し、未来に備えてください。未来の自分を明日の現在の自分と考えてください。未来を考えない。必ず現在を起点に自分を考えてください。現在がすべてであることを受け入れてください。多くの人が自分の人生を未来に先延ばししています。

人生を将来のいつかに先延ばししないことはとても大事です。今を生きましょう。

だけど、私がいちばんグッときたのは以下の言葉。

哲学からの学びとはソクラテスが言ったようにいかに死ぬかを学ぶこと。
真の哲学者はいつでも悔いなく死ぬことができる。

これこそが「生死を明める」ということ。→来月の印哲喫茶のテーマ


それにしても、読後に残るモヤモヤ感よ。
それこそが分断と差異の源泉なのか。私の頭がカチカチなのか。

それでも社会は少しずつ動き始めていて、いろんなことが2年ぶりにできるようになっている。

今を生きよう。


理事長、糸島の裏山でとれた枇杷が献上されましたぞ。

お目目パッチリ(さっきまで寝てたのに)

やっぱりお釈迦様系

本日の印哲喫茶、ギーターのなかでもヒンドゥー色の濃い部分で、信仰・信愛にかかわる大事なパートではあるけれど、これまでの章と比較すると冗長なところが多く、サラッと流した。

......つもりなのに、気づけば猛烈に時間が押していた。

とりあえずお茶だ。
今日のおやつはまた豪華で、O嬢手作りのハト麦おこし&Y嬢の上高地みやげ帝国ホテルクッキー。

これぞ麦tea


このハト麦おこしは大ヒットだった。真似して作って来月の漢方喫茶で出してみようと思うなり。

そんなこんなでくつろぎつつも、仏教話にもつれこむ。

ヒンドゥー教徒の受講生はいないし、ヒンドゥーの神様を信仰するなんて私自身が考えたこともないのだから、仏教の話、とりわけ実家や、おじいちゃんおばあちゃんのバクティっぷりを考えたほうがピンとくるはず。

最後に受講生それぞれが心に思い描いたことをシェアしてくれたときに、なんだか心がほっこりしてきた。順番が来たから仕方なく何か言うのではなく、わかったようなことを言うのでもなく、心から湧いて出た言葉は人の心に響くものだ。とんでもなく時間オーバーしたけど、一人ひとりに話してもらってよかった。

かくして、インド思想の核心に触れるときはやっぱり仏教になるのがワタシ流。サーンキヤだヨーガだと言っても、理論を打ち立ててなおかつそれを実践・実現したお釈迦様にはかないませぬ。ゆえに、ほんとうに大事なことはお釈迦様系の仏教観念で伝えたくなるのである。

というわけで、印哲喫茶のギーターシリーズはいったんこれで終了し、次回6月19日には禅仏教の考えに親しんでいただくテーマでお届けします。ギーター初回で触れた死生観の続きやら、アシュタンガヨガの練習のことやら、日常のあれこれについて一緒に考えましょう。

仏教とか禅とか、ましてや道元禅師と言うと敷居が高いと思われるかもしれませんが、今回のテキストに関しては難しい漢字もなく、口語訳がなくても理解できるような平易なものです。もちろん、それをさらにわかりやすく解説します。誰もが「自分のこと」として受け止め、考えられるテーマでもありますので、構えることなくご参加ください。

www.chazen.yoga


ところで、今日も、先日のヨーガ・スートラクラスでも話した「自力と他力」の件、むかし坊主バーに行ったときの記事を読み返してみたら書いてあったよ。浄土真宗にはご縁がなかったので、このときいろいろ勉強させてもらった。

ちなみにこの「寺カフェ」ってまだやってるのかなとググったら、コロナもなんのそのでちゃんと存続していらっしゃいます。ブラボー。さすが、阿弥陀さんに護られてるわー。

chayoga.exblog.jp

私的見仏記

みうらじゅんの仏像話を聞いてたら、矢も盾もたまらなくなりトーハクへ駆け込んだ。

本館の展示で平安時代の十一面観世音立像が3点見られたのでかなり満足。満足しておきながらも、ふと考えてしまったのだが、ずいぶんお年を召しておられる仏像さまたちなのに、展示替えだの出張だのであちこち移動させられるのは実にお気の毒である。お姿を拝見できるのは幸いではあるが、もともと安置されていたお寺で本来のお役目を果たされることはかなわないのかと。

動物園に行くと、動物たちと会えてうれしいけれど、本来棲むべき場所に(野生に)居た方がいいのではないかとも思ってしまうのと同じことなのかもしれない。仏像も動物も意思表示はされないからわからないけど。

トーハクもエーハク(大英博物館)も大好きなくせに、アンビヴァレントやー。


仏像をいくつか見ることができればそれで十分なのだけど、せっかくだからとアジア館や法隆寺館もまわる。特別展(今は沖縄返還50年の)はパス。そのうち今度の日曜日の印哲喫茶で話すネタを思いついたりして......。

ギーターなのに仏像ネタかよ!

先日のスートラクラスで学んだことが今度の印哲喫茶と著しくリンクしていたので、そのときにサビの部分を話してしまった。手の内を見せてしまったからには、別の切り口を用意せねばと思っていたところだった。ありがとう、みうらじゅん。こうなったら思いっきり暴走だ(でも時間が足りない)。

ところで、仕入れてきたネタは印哲喫茶用だけにあらず。

本来の仏像鑑賞とはまったくかけ離れた視点で、そう、あたかも仏像になど興味のない修学旅行生のような視点で拝観してしまったのがこちら。

四天王(持国天増長天広目天多聞天


いや、これだけ見ていたら何もおかしくはないのだけど、1mくらいの高さがあるケースの中に入っているので必然的に目線が四天王の踏んづけている邪鬼たちに......。

首90度に折れ曲がってる?


以下はその妄想劇場の展開。

上の写真の奥のほう、多聞天が踏みつけている邪鬼はスプタクールマーサナの練習中か

多聞天は、アジャストメントをしているのであろうか
(このアジャストでは、脚が首の後ろにかかるように、背中を押すことで肩の上に脚を乗せ交差させるのがポイント)

足で踏みつけたらめっちゃ強力なアジャストになりそう(よい子はマネしないでね)

邪鬼が練習生に、四天王がちゃみこさんに変換された図


............あとは各自ご自由に妄想ください。


お口直し:
某丈に「こんな顔で寝てみたいですね」と言わしめた理事長の寝顔も仏に近い。

涅槃像(生き仏)

出張は雨ばかり

コロナ禍と理事長の病気が重なって長らくどこにも行けなかった反動か、春になってから堰を切ったように理事長を伴って出張しているが、毎度大雪が降ったり雨だったりして、天気に恵まれない。どうやらこの2カ月で突然「雨女&雨男」になってしまったらしい私たち。

先日は大雨予報のなか、群馬までお墓参りに。予報よりは少ない雨で助かったけれど、そして悪天候のおかげか道路はどこも空いていてラクに日帰りできてよかったけれど、理事長の気晴らしになるようなことはなにひとつ叶わなかった。

して本日。
子分たちに会いに葉山まで出かけたら、また雨......。

長靴履いたら水たまりに入りたくなる年ごろの子分たち(私もだけどね)。

保育園は休んでもらったさ


このプチ旅行はまた、理事長と電車で出張するための実験でもあった。せっかくちっちゃいおじいちゃんになったのだからと、カートみたいな大仰なものではなく、犬が入っているかわからないような普通のバッグ風キャリーを新調したのに、やはり途中鳴いて人々の視線を浴び、いたたまれずに何度か下車するはめに......。

電車はちょっと厳しいかなー。
それでも、車でも遠出は厳しかった昨年のことを思えば、一緒にお出かけできるだけで十分有り難い。


子分にお昼ご飯を食べさせてもらう理事長。

持つほうも、食べるほうもお上手お上手


ハンモックでくつろぐ理事長(その後、子分に寝かしつけてもらって、帰るまでずっとここで寝てた)。

ぬくぬくして、きもちえーわ


あまり吹聴しないようにしているのだけど、もう3カ月以上発作が出ておらず、腫瘍だけでなくてんかんもどこかへ飛んでいったかのようなお達者ぶりの理事長。昨日などスートラクラスのティータイムにO嬢が焼いてきてくれたバナナケーキを食べていたら、匂いに気づいてムクっと起き上がり、おすそ分けをせしめていた。さすがです。

まだまだお元気で、練習生をお導きください。


お知らせ:
来月のスートラクラスは6月5日で確定です。
また、今月28日に星覚さんによるオンラインの「正法眼蔵随聞記」購読会があります。

それから、今度の日曜日は印哲喫茶です。

ご参加お待ちしております。

6年越しの花

3月、買って数年が経ったパールアカシアに初めて花が咲いた。

何の植物だったかも忘れたころに


4月には、ユーカリの固い蕾が割れはじめた。

卵からヒナが孵るような......


ムーミンに出てくるスティンキーみたいな花。

華のない花


古い写真を見てみたら、2016年の夏に買ったらしい。

2016年7月のユーカリとシューさん


ひっそりとベランダの片隅で、6年越しの花を見せてくれたユーカリ......。

2018年だったかのベランダ改修工事の受難で他のユーカリがみな枯れてしまったなか、貧相な姿になりながらもなんとか生き残り、ついに花を咲かせたと思うと泣けてくる。

この花の存在に気づいている人は、たぶんほとんどいないだろう。スポットライトを浴びるような輝かしい咲き方でないところは、修行の花に近いかもしれない。

朝顔のようにひと朝だけの花をつけるもの、毎年決まった時期に花を咲かせるもの、命あるものはすべて、それぞれの花の咲かせ方や咲かせる時期がある。そんなことを思った。

長いこと練習を続けている練習生に、ある日あるとき、ふとその成長ぶりを垣間見ることがある。

たとえば6年にわたってアシュタンガを練習している人が、ある時期は練習も休みがちで風前の灯となりながら、またコロナという状況のなかで仲間たちが一挙に練習から遠ざかるなかで、なおも静かにそこに存在し、他には目立たないけれど自分の花を咲かせている。

このユーカリにそんな姿が重なるのだ。

人に見せるための花ではなく、自分の成長のプロセスとしてのひとつの変化、あるいは実りともいうべき修行の花。そこに尊い美しさを見る。