CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

仏性に出会う

汗をかく季節になりました。そうなると必然的に浮上するのがマットの匂い問題です。

今年は夏の間、月に一度は洗ってきていただくことにして、先日その旨お知らせをしました。各自都合のいい日に持ち帰ってねというスタンスではありましたが、なんとなく積極的に持ち帰る気配が希薄なのを感じました。むしろ「またかよ」「メンドクサイなあ」「私のマットはニオってませんから」「スルーしよ」という(思っていても言えない)気配が濃厚です。

その気持ちはわかります。私たちは面倒なことや今は気分じゃないことをやるように言われると、「え〜!」とつい抵抗したくなるものです。

反面、そんなに面倒なことなのだろうかと首を傾げたくもなります。ヨガマットは毎日の練習を支えてくれるいわば伴走者ですから、感謝の気持ちを込めて洗うことで清浄になるのはむしろ自分自身の心でしょう。それに、ここはヨガのサービスを提供するスタジオではなく、それぞれが自分自身と向き合うための道場です。マットを洗うことはプラクティスの一部なのです。

お知らせメールの翌日はあいにくの大雨で、案の定持ち帰る人はいませんでした。

と思っていたら、私が気づかなかっただけで実はちゃんと持ち帰っていた人がいたのです。都外からバスや電車を乗り継いで通っている人です。膝を痛めていて、ひどいときは歩くのも困難になる人です。

また雨だった日に洗ったマットを持ってきたのを見てそれを知り、なんだか尊いものを見たような、美しいものに出会ったような感動を覚えました。なんて清々しい行いなのでしょう。そこにはまったく迷いというものがありません。

鈴木俊隆老師の言葉を思い出しました。
(引用はすべて鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド 2』藤田一照訳 サンガ刊より)

仏性はあなたが「はい!」というときにあります。その「はい!」は仏性そのものです。自分の中にすでにあると思っている仏性は仏性ではありません。あなたがあなた自身になっているとき、あるいは自分自身のことを一切忘れて「はい!」と言うとき、それが仏性です。

美しいものに出会ったと思ったのは、そこに仏性を見たからだったのですね。

上記は禅の公案である「百尺竿頭進一歩」についての項にある言葉で、詳細は長くなるので省きますが、俊隆老師はこれをわかりやすいたとえで説明しています。

この瞬間を忘れて、次の瞬間へと成長しなさい。それが唯一の道です。たとえば、朝食の準備ができたとき、妻が拍子木を叩いて私にそれを知らせてくれます。もし私が返事をしなければ、妻は私が怒り出すまでそれを叩き続けるでしょう。

......だから秘訣はただ「はい!」と言って、ここから飛び降りることです。それで問題は何もありません。それは自分自身であること、古い自分にしがみつくことなく、いつでも自分自身であることを意味しています。自分に関する一切を忘れ、新たな自分になるのです。

こと修行に関しては、一も二もないのです。ただ「はい!」と言ってやるだけなのです。

「でも」とか「だって」とか、やらない理由をあれこれ考えるのは簡単ですが、それこそが古い自分にしがみついている証拠です。「はい!」と言わないために迷いが生じて自分自身を苦しめているだけなのですね。

禅はみなさんが考える以上にシンプルなのです。


件の仏性の人が持ってきてくれたお庭のハーブ(これまた禅的)。

はからずも六花亭のイラストと合っている