毎年恒例の「雲水かるた」大会でした。
と言っても、勝負ってわけではないのです。いわゆるパシーン!っていうアレとはぜんぜん異なる優雅な戯れごとなのでございます。仏教に争いごとは似合いませんので。
そして、今年はさらに、参加者が等しくカードをお持ち帰りいただけるように、4枚とったら上がり!というルールにいたしました。して、ただ座ってかるたを取るわけではありません。そこからしてカラダを使っていただきます。
まず全員立って叉手(しゃしゅ)という腕の位置でスタンバイします。札が見つかったら合掌礼拝してひざまずき、五体投地の礼拝(御拝)をしてから、両手でカードをいただきます。
星覚さんの書の芸術性がさらに高まっており、飾っておきたくなるカードがたくさん。
かるたを取り終わったあとは、星覚さんからそれぞれの札の意味や永平寺での修行生活についてお聞きし、それをふまえて、参加された方に感想や今年の抱負などをシェアしていただきました。感度の高い、また純度の高い方が多く、お話を聞くうちになんだかひどく感銘した私です。また、星覚さんの話されること、あるいは話されていないことのひとつひとつが私への大いなる戒めとなって気持ちが引き締まっていく時間でありました。
思ったことはたくさんありすぎて全部書ききれないのですが、このワークショップをとおして、禅もアシュタンガも、まずカラダから始まるということを再認識しました。坐禅はずっと坐ったきりだから、あまりピンとこないかもしれませんが、カラダが先なんですね。特に道元禅師の禅は、アタマじゃなくてカラダなのです。
道元禅師の坐禅は無の境地になりなさいなどと言わないのです。そんなゴール設定はじゃまになるだけなのだと思います。おそらくそれは、アシュタンガヨガでポーズの完成に執着することがサマーディを遠ざけるのと同じようなことなのでしょう。でも、坐禅をすると「無」を目指したがるようになり、アシュタンガをやるとポーズの完成を目指してしまうのですね。
だからどちらも「ただ」やるべきなのです。
「毎日やるのがアシュタンガ」の意味は、毎日やったら柔らかくなるとか、ポーズが早く上達するとか、そういうことではないのです。硬くても、ぜんぜんサマにならなくてもいいのです。ただ毎日歯を磨くように、どってことない当たり前の習慣としてただやるのです。たまにやるアシュタンガは「単なるストレス発散」のイベントになってしまいます。
やったら何の効果があるとか、どういうメリットがあるとか、何も考えないでただやるのです。只管打坐は坐禅だけでなくアシュタンガも同じ。
「ただ」なのです。「ひたすら」なのです。
私の感覚で言うとそれは「デクノボーのように」なるということです。
よくわからなかったらとにかくまずカラダを動かすこと。ものごとをできるだけシンプルにすること。誰が何と言おうがただやること。
アシュタンガヨガはポーズが上達するほどに迷いの方向に進みやすいので、最初から坐禅ができる人はやらなくてもいいかとも思いますが、そこはやはりアシュタンガヨガの「副次的な効果」というのがあまりにも絶大なので、迷わない程度にやっておくことをおすすめいたします(まわりくどいな)。
それから、「ただ」「ひたすら」の修行をひとりで続けるのは難しいので、迷わずに進めるよう、師をもつこと、さらには一緒に坐ったり練習するよき仲間をもつことがとても大切だと感じます。
ともあれ、今年もまた年初にこのようなよき刺激が得られ、実り多き一年の予感がいたします。毎度、変わり者の私のお遊びにお付き合いくださった、よき師である星覚さん、よき仲間のみなさま、ありがとうございます。本日参加できなかったみなさまも含め、今年もぜひ「やる前も、やっている間も、やった後も楽しいこと」をご一緒しましょう。
蛇足ながら、本日のお話に出てきた「體」の字、ローガンの私にはどうしても「ハモ」に見えてしまうので(食い意地が張っているだけか)、本文中はカナ表記にいたしました。