CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

春と修羅の摂心

ふと、なんなら一人摂心ができそうな気がしてきたので、ムーンデイを利用しての一日集中摂心を決行。

摂心といってもわりとユルいものから、泣きそうにキツいものまである。一人でやるということは、簡単に挫折も可能である。途中でゆっくり休憩なんかしたらそこでダメになりそうだから、およそ1時間に1炷のペースで一気坐りした。夕方からスタートしたので5時間ほど眠ったし、途中お茶や軽食もとったけれど、長い休憩を入れずに15炷。

無事終了して入浴し、ただいま疲労の極みを味わっているところ。
たったの一日だけど、一日あたりとしては今まででいちばんたくさん坐ったかもしれない。後半はさすがに脚や腰がしんどくなってきた。10炷目には途中で脚をほどいて猛ダッシュしたい衝動、今すぐ太陽礼拝したい衝動が込み上げてきた。じわじわした痛みで手足が汗ばんでくる。ここ最近の坐禅はぜんぶ綺麗ごと、おままごとでしかなかったんだなと笑えてくる。ふだん坐禅会や禅の旅で坐っている分にはまず痛みを感じることがない。眠気と闘うときくらいしか苦痛を感じないからね。

苦行......そんな言葉が浮かんできた。
最初の15分でこの痛みがくる人のことを思った。ごめんよ。そりゃ坐禅が嫌いにもなるわな。


しかし、ある意味ここからがほんとうの坐禅だ。
生命の実物としてのこの痛みをどう受け入れるかという局面が味わえるのだから。

決して痛みと闘うのではない。「痛くない痛くない」とおまじないを唱えるのでもなく、どうやったらこの痛みを取り除けるかと考えるのでもなく、もちろん脚を組み替えることもしない。痛みとともに残りの時間をただ過ごすのである。

決して我慢大会ではなく、終わりの鐘が鳴るまで、痛みと手を取り合って伴走する。このつらさは永遠に続くものではないし、経験上その痛みでどこかを損傷することもないとわかっているから大丈夫。ほとんどドMにしか思えないかもしれないが、そうではない。痛みを快感にするわけではなく、痛みは痛みとしてそのまま受け入れて、手をつないで走るのだ。


修羅という言葉が浮かんできた。
そして外は春の雨。「春と修羅」の摂心......。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です


終わりを告げる一鐘のありがたさよ。雲堂アプリよ。
手元にiPhoneがあったから、こんな写真も撮れた。

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乗られたせいで痛かったわけではない


そのあとの太陽礼拝の気持ちよさよ。つくづくヨガは(アシュタンガでさえも)癒しであると感じた。

しかしながら、癒しだけでは見えないことも確か。
修羅をくぐらないとね。