CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

命について考えること

少し前に映画『心と体と』を観た。すごくいい。作り方がうまい。ストーリーも、テーマも、表現もすばらしい。

ありきたりではないラブストーリーが主旋律として流れる。2人を結びつけるのが鹿の夢。その鹿たちの映像がまた美しい。まるで鹿が台本に合わせて演技したかのようで、心にその姿が刻まれた。

けれども、見終わったあと頭から離れなかったのは鹿よりも牛だった。舞台となるのがハンガリーの食肉処理場で、かわいらしい牛の顔が登場したあとに、屠殺され、切り裂かれ、食肉になっていくところが、ドバドバと流れ落ちる真っ赤な血とともに映し出される。

多くの人が目を背けたくなるであろうシーンに、監督の描きたかったテーマは実はこちらなのではないかと勘繰った。そしてそういう視点でこの映画を眺めれば眺めるほど、秀逸さが際立つような気がした。

人はこれを見て何を思うだろうか。


私はまず、このような仕方で牛を殺して肉を流通するシステムと、その部分を想像することもなく享楽的に肉を消費する人間の傲慢さに違和感を覚えた。それは牛がかわいそうとかそういう感情ではなく、牛を食べるために殺すことそのものへの疑問でもなく、食べるために牛を育て、その牛を機械に乗せて屠殺して出荷するという一連のシステムに対する違和感であった。

見終わってからもずっと考え続けた。
もしそれが牛でなくてキャベツであったなら、あるいは漁船に引き上げられた大量のサンマであったなら、なんの引っかかりもなく見ていただろう。

その違いはなんなのだろう。
私たちは野菜であれお米であれ、他の命をいただくことで生きていられるわけで、それが牛になっただけで、なぜこんなに違和感を覚えるのだろう。

かつて同僚が言っていたことを思い出す。「肉屋さんの看板とか、車に、かわいいブタちゃんの絵が書いてあったりするじゃないですか? ああいうデリカシーのなさがすごくイヤなんですよね」と。そのときの私はそれが「デリカシーに欠ける」という認識を持たない、まさにデリカシーに欠ける人間だった。

そんな私が、やがてアヒムサーや不殺生戒について知り、肉を食べなくなり、えらそうなことを言うようになったけれど、動物を殺して食べること自体を否定しているわけではない。人類は狩猟をして生きてきたわけで、それ自体は不自然なことではないと思う。ただ、大量の家畜を育てて食べることに必然性があるのかと疑問をもつようになった。旨味という快楽のために、痛みや恐怖を知る動物の肉が大量に生産される意味はあるのかと。しかも、あやしい飼料を与えられ、肥育ホルモンまで注射されている。

それを考えるとき、いつも私の頭には「ヘンゼルとグレーテル」が思い浮かぶ。お菓子の家に誘い込んで子どもたちを太らせて食べようとする魔女と私たち人間が重なる。


ちょうど『命をどこまで操作してよいか 応用倫理学講義』という本を読んで、動物の命の重さについて考えていたところでもあった。臓器移植や遺伝子操作、体外受精など、科学をどこまで生命操作に利用していいのか、感情で考えたら絶対に片付かない問題だけに、学問的なアプローチが必要であることを感じた。

けれども、インド思想的に煎じ詰めれば、どれもこれも人間の欲望でしかないような気がする。先日の印哲喫茶のテーマにつながるけれど、人間の命は自分や誰かの所有物ではない。全宇宙の調和の中で生命の息吹を与えられた存在なのだと思う。その調和を大きく崩してほしくないと願うばかりだ。

よくよく突き詰めれば、自分の所有物などなにひとつない。それなのに、この地球上のあらゆるものを私物化しようとしている、思い通りに動かそうとしていることがおそろしい。あらゆる意味で謙虚にならねばと思う。

東京にいると、そういうことに思いを致しにくい。神様が創造したと想像できるものよりも、人間が果てしなき欲を満たすために作ったものばかりが目につくからだ。山の分校にいたときは、いつもそこに神様が作った世界を感じることができた。「ああ、ありがたい」と感謝の気持ちが湧いてくる自然の美しさがあった。ありがたくない不便さや不快ささえも、道理として受け止められた。

ずっと都会にいるとそういう感覚が鈍る。もうそろそろ限界だ。

お山から連れて来たスノードロップたちも、恋しい恋しいと泣いている。

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えーん、えーん


印哲喫茶は毎回違うテーマの単発講座でありながら、命について考えることが印哲喫茶そのもののテーマのような気がしています。先々が楽しみな印哲喫茶です。次回は3月6日になりました。どなたさまもお気軽にご参加ください。

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